ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




台東桜木郵便局。台東区上野桜木1-8。1989(平成1)年3月12日

台東区上野桜木は上野公園と谷中霊園にはさまれた住宅地といっていい。ただし1丁目の半分以上は寛永寺とその霊園が占めている。JR鶯谷駅の崖の上がそれだ。戦災にあっていないから、古い家は戦前からのものとみていいだろう。
郵便局の建物も入口の庇や裾のタイルなどから戦前のものかと思うが確信はもてない。
写真右の日本家屋は道路に沿っていきなり建っているが、普通こういう建て方はしない。たいていは少し敷地の内側に建てて道路沿いに塀があるものだ。ちょっと珍しい景観になっている。



旧台東桜木郵便局。2005(平成17)年4月1日

現在、郵便局は写真左の白い壁のマンションに移った。元の郵便局はプリント店のようだ。古くみえるのを嫌ったらしく改装してしまっている。日本家屋のほうは広い壁面を利用して掲示板になっている。



二軒長屋(郵便局と旧郵便局の間の路地を入ったところ)。上野桜木1-8。2005(平成17)年4月1日

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大東京火災海上保険。中央区日本橋3-1。1985(昭和60)年4月14日

中央通りの日本信託銀行本店から横丁を入って隣に並んで建っていた。設計:佐藤功一、施工:大倉土木、昭和6年の竣工。
金融関係のビルらしい古典様式の系列になる建物だ。「堅実、目立たない」が設計の指標だったか、と思うほどさりげない感じで、ぼくには好ましく思う。目立とうとするデザインや信頼感を通り過ぎて威嚇する感じのビルばかりでは疲れる。


大東京火災海上保険。1991(平成3)年8月4日

「ウィキペディア」によると、大東京火災は1918(大正7)年8月に東京動産火災保険の名称で設立された。月掛けの小口損害保険のことを「動産保険」といったが、その業務を扱う上位3社を動産三社といい、大東京火災はそのひとつ。1944(昭和19)年に東神火災保険を合併して大東京火災保険に改称。1949(昭和24)年に大東京火災海上保険と改称した。2001(平成13)年、千代田火災海上保険と合併して「あいおい損害保険」になった。



大東京火災海上保険と日本信託銀行本店の上部。1986(昭和61)年6月22日

大東京火災海上保険
1988(昭和63)年4月24日

日本信託銀行本店が解体され、ビルの側面が見えるようになっていた。

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加藤ビル。中央区日本橋2-1。1991(平成3)年9月1日

中央通りの日本橋高島屋の少し北の向かいにあった。窓がどこも暗いのはすでにテナントが出てしまったからだろうか。もしかして紅花(レストラン)が出るのを待っているのかもしれない。現在は建て変わってやはり加藤ビルといっている。
歴史的建築総目録DBによると昭和4年の建築で、大倉組の施工。


加藤ビル
1985(昭和60)年8月3日

看板の「紅花」はステーキの鉄板焼きの店として有名だ。「二丁目店」はビルの地下にあって、何回か入ったことがある。一般的なレストランだった。

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竹河岸ビル。中央区京橋3-5。1985(昭和60)年9月8日

このビルの裏手は京橋川で、「竹河岸」というのは京橋(橋)と白魚橋までの北側の河岸地の名称だった。川の対岸は白魚河岸。もちろん大震災前のことで、町名は炭町といった。京橋川を埋め立てる以前には京橋と白魚橋の間に、炭谷橋が架かっていた。戦前土木絵葉書ライブラリ>橋梁で昭和6年3月の炭谷橋開通記念絵葉書を見ることが出来る。その中央に写っているビルが竹河岸ビルと京橋警察署に違いない。
写真右の塀は警察博物館を取り壊した跡。旧京橋警察署だった古いビルは撮影しそこねた。
京橋川の埋立ては昭和34年からで、昭和37年頃では渡辺橋(外堀通り)−紺屋橋と新京橋(昭和通り)−桜橋間は埋立てられている。京橋(橋)の撤去は昭和41年2月10日。



竹河岸ビル上部。1986(昭和61)年12月30日

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五軒長屋。台東区東上野3-25。1986(昭和61)年頃

下谷神社の裏の通り。「トンネル長屋」の向かいになる。店子は左から堀内歯科(写真には入っていない)、秋山工芸社、OS商会、富沢時計材料店、個人宅。



五軒長屋。1989(平成1)年7月23日

1枚目の写真の長屋を斜めから撮ったもの。秋山工芸社の左が堀内歯科で、長屋とは別の建物かもしれないが、1階部分を含めて看板建築に改装したものと見た。歯科医院は廃業したようで看板はないがドアのガラスに金文字が残っている。
隣のモルタル仕上げの看板建築は中村時計店で、ここまでは現在も建物はそのまま。中村時計店は三叉路の角で、向かいに大勝と三橋(みつはし)自動車の建物までが写っている。


瀧澤薬局
東上野3-25
1989(平成1)年7月23日

この建物も健在。2階前面の両端に付柱がある。

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オーエー、八木製本。台東3−27。1988(昭和63)年4月10日

写真右はアーケードのある佐竹商店街で、高島屋洋装店が見えている。
銅板貼りの三軒長屋など、写真の建物は現在もそのままだ。


左:VIP。台東3-1。1989(平成1)年2月12日
右:神田パイプ店。台東3-28。2005(平成17)年4月9日

左写真は清洲橋通りから入る横丁の角にある佐竹商店街の店。震災後に建てられた看板建築だろう。佐竹商店街の商店には幾つか戦前の建物がありそうだが、アーケード下の商店街の表側から見てもよく分からない。
右写真は清洲橋通り沿いの家。「神田パイプ店」の表札を出している。ネット検索すると「パイプ加工・パイプ附属品加工業」として出てくる。

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東信商事。京橋2-12。1987(昭和62)年4月29日

昭和通りと鍛冶橋通りの交差点に面して建っていた。この交差点は、地下では都営浅草線と京葉線が交差している。写真中央の信号の左の木が建物の角にあって木の右側が昭和通りに、木の左側が鍛冶橋通りに面している。
東信商事は昭和7年創業の手形割引の会社。HPの「会社概要」にある昭和10年当時の本社の写真は木造2階、下見板の洋風の家だ。そこから矢印で現在の東信商事ビル(平成6年完成)の写真に変わったような表示だ。平成5年当時の本社として、上の写真の建物も載っている。
戦後まもなくの火保図に、コンクリート造りで階数の表記のない建物として載っているのが当の建物だろう。当時の住所は宝町2-8。戦前の火保図では空き地である。「昭和10年当時の本社」が同じ場所だとすると写真の東信商事は昭和10年代の建築らしいのだが、平屋で鉄筋コンクリートの建物を造るとも思えない。元はビルだったのが戦災で焼けて、残った1階部分を改修して使っていた、ということはないだろうか?



東信商事。1988(昭和63)年頃

この建物の裏に「たから児童遊園地」という小さな児童公園があって、「東信商事管理」となっていた。東信商事ビルの敷地になって、なくなってしまった。


京二館ビル
京橋2-5
1985(昭和60)年11月1日

鍛冶橋通りの北の裏通りにあった。
昭和10年頃の地図に「京二館、コ四(コンクリート4階建て)」とある。

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弾正橋。京橋2。1988(昭和63)年2月14日

橋を渡っている道路は鍛冶橋通り。写真手前が住所では京橋、向こう側左が八丁堀3丁目、右が八丁堀4丁目になる。
写真の橋は震災後の、1926(大正15)年6月の竣工。竣工時には、親柱の上に、薄い円筒型の電灯カバーを鉄柱が突き刺した形の街灯を置いていた。昭和39年に首都高建設による改修があった。橋の両側に小さい広場が造られ、そこへ入る通路のため欄干が切られたりしている。
現在の橋は平成5年に架け直されたか全面的に改修されたかして一新された。震災後の橋の親柱や欄干のデザインを引き継ぐようなイメージで作られている。橋の両脇を児童公園風にしても遊ぶ子供などいないのだから、モダンなデザインの親柱を1基でも残すことを考えて欲しかった。


弾正橋の親柱
京橋3
1987(昭和62)年4月27日

深川に保存されている鉄橋(鋼鉄アーチ)の旧弾正橋は、本八丁堀の北桜河岸と、柳町や炭町を結んでいたもので、1878(大正11)年に架橋された。現在の橋より京橋川に近いところにあった。深川へ移されたのは1929(昭和4)年5月。鍛冶橋通りの弾正橋が最初に架橋されたのは1913(大正2)年7月で、元弾正橋と呼ばれるようになった古い橋が深川の八幡堀に移されるまで、新旧2つの橋が存在した。

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第二東京弁護士会(写真左)、東京弁護士会。霞が関1-1。1986(昭和61)年7月27日

前々回の「第一東京弁護士会」、前回の「東京弁護士会」ときてもうひとつ「第二東京弁護士会」の建物がある。
建物自体のデータは不明だ。「東京弁護士会」の建物が3棟あり、第一、第二というのは建物の名称のように思ってしまう。「第二東京弁護士会」のホームページをみたら、三つの異なる組織だと書いてあった。東京で弁護士として仕事をするには、東京弁護士会か二弁(第二東京弁護士会の略称)か一弁かのいずれかに入る必要があるのだそうだ。


第二東京弁護士会
1986(昭和61)年8月17日

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東京弁護士会。霞が関1-1。1986(昭和61)年7月27日

歴史的建築総目録DBによると、設計:森山松之助、施工:新工務所、完成:昭和7年。
森山松之助は上諏訪温泉の片倉館と台湾総督府が有名らしい。他にネットで拾ってみると、銀座のヨネイビルディングと丸嘉ビル、新宿御苑の台湾閣、神保町にあった寿ビル、両国公会堂などがある。

東京弁護士会。1986(昭和61)年8 月17日

関東弁護士会連合会。1986(昭和61)年8 月17日

本当の名称は不明。住宅地図では東京弁護士会の建物に関東弁護士会連合会の記載があり、写真の建物には記載がない。地図では東京弁護士会の建物と後ろでつながっている。二つの建物はぴったりくっついているように見えるが、どうも隙間に増築したような感じだ。

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