ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




三星舎。千代田区神田錦町3-3。1992(平成4)年5月4日

写真右手奥に岡田信一郎が設計した博報堂(撮影時は本社ビル)が見えている。それで場所はすぐ判るようなものだが、最近これが取り壊されてしまったそうだ。
三星舎の小さな建物はRC造、スクラッチタイル張りの壁に丸窓のアクセントを置いた、昭和初期のスタイルのビル。住宅地図では「三星舎写真製版所」。上の写真ではビルの両側は建物が取り壊され、「建築計画のお知らせ」の掲示板が架かっていて解体も間近のようだ。
『廃景録>消えた近代建築>三星舎』によると「建設年:昭和8年/設計者:店主/解体年:平成4年」である。



上:1992(平成4)年5月4日
左:1987(昭和62)年12月31日

左の写真は門松に注連縄、「三星舎」の文字も輝いて正月の準備は万全という光景。ビルの左に写真屋の「サザギク3丁目店」が写っている。
右上の写真は玄関ドアの上で、和室なら欄間になるがこの場合はなんというのだろう。採光・換気の窓にしている。横軸の中心で回転するようだ。窓の桟がアールデコ模様である。今なら古い建具として商品になったと思うが。

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誠文堂新光社。千代田区神田錦1-5。1986(昭和61)年6月22日

誠文堂新光社は主にペット、園芸や理工系の雑誌や本の出版社。会社のHPによると、1912(明治45)年の創業。「誠文堂」の社名で書籍取次店としての出発である。昭和10年に新光社と合併して誠文堂新光社の社名になった。戦後すぐの『日米会話手帳』はこの会社の出版だった。
「子供の科学」が有名だが、戦前なら大正11年創刊の「科学画報」だろう。ぼくの父がこの雑誌を読んでいて、ご丁寧にも数冊ずつ製本してあったので昭和7〜10年の号がいまだに我が家の本棚に納まっている。ぼくは子供の頃から時々取り出しては眺めていたのだが、おかげで世間離れした変な大人に成長してしまった。昭和7年の「科学画報」は新光社(東京市神田区錦町1-19)の発行で、新光社の代表者は小川菊松、誠文堂の創業者である。新光社は誠文堂の出版部門だったのかとも想像できる。
写真のビルは1932(昭和7)年の建築。スクラッチタイル貼りの壁面、丸窓、アールデコ風の塔屋というモダンな外観は今みると昭和レトロそのものだが、建築当時は斬新にみえたのだろう。『Site Y.M. 建築・都市徘徊>誠文堂新光社』によると2005年4月に解体された。『廃景録>誠文堂新光社』にはビルの裏側の写真も載っている。

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有精堂。神田神保町1-39。左:1987(昭和62)年1月1日、右:1996(平成8)年5月4日

すずらん通りから2本南の裏通りにあった。書籍の取次店が多い場所だから有精堂もそういう会社かと考えたが、『総覧』に「有精堂出版K.K.、建築年=S4」と載っていた。出版社らしい。
現在は建て替わったビルに「弘正堂図書販売株式会社」の看板がかかっている。



檜画廊の4軒長屋
千代田区神田神保町1-17
上左:1987(昭和62)年11月8日
上右:1987(昭和62)年
左:2001(平成13)年10月

すずらん通りの中ほどにある、看板建築にした4軒長屋の店舗。上の2枚の写真はアーケードがあった時代のものとして出してみた。ブレ写真なので小さい表示で。左下の写真がほぼ現在の状況。1986年の住宅地図では、手前の角から、檜画廊、中山書店、大野カバン店、楽々(中華料理)。
建物最上部の軒の飾り帯は、よく見ると三角形の形と大きさが揃っていない。ゲージなど用いず手書きしたようで味がある。

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松本家住宅。千代田区神田多町2-9。1987(昭和62)年12月31日

多町はかつて、青物市場があった。その神田青物市場は震災後の昭和3年に秋葉原に移り、今はまた大田区東海に移った。松本家は江戸時代から続く青物問屋で、屋号を伊勢長という。多町の市場は問屋集合市場で、このような個々の店舗で道路にまで商品を置いて、個別に小売商と応対していたらしい。
建物は昭和6年の建築で国登録有形文化財である。横丁の側はモルタル塗りになっているが、現在は和風の下見板に改装され、2階右の防火壁が取り外されている。オリジナルに近い姿に直されたのだろうと思う。



栄屋ミルクホール。神田多町2-6。1988(昭和63)年8月14日

あるいは松本家以上に有名な建物かもしれない。逆光のへたな写真で、肝心の「ミルクホール」の白い暖簾も出ていないが、右手のガソリンスタンドが写っている。今はマンション(ガラステージ神田、2005年7月竣工)が建っているが、神田須田町1-6の「共同石油神田中央SS」である。


谷川印刷。神田多町2-11
1987(昭和62)年1月1日

多町大通りの松本家と栄屋の中間あたり。写真左手は「大精電気」。現在は「第19岡崎ビル」(1991年4月竣工)。

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紙伝商店。千代田区神田多町2-9。1987(昭和62)年12月31日

手前は一八通りで、左手に行くと外堀通りの司町3丁目交差点。右手の路地の突き当たりは松尾神社だが写真ではよく分からない。紙伝商店(文具)の建物には「建築計画のお知らせ」が架かり、前に突き出ている飾り窓の中は空っぽだ。店名から、かなりの老舗のように感じられるが、今はネット検索ではヒットしない。
現在は「田中ビル別館」という5階建ての小さなビルになっている。ちなみに写真左のビルが「田中ビル」。



明治洋紙店。神田多町2-11。1987(昭和62)年12月31日

手前の空地は神田司町になり、司アパートの跡。家並みの前にある道路は右(南)へ行くと神田小学校(現千代田小学校)の前を通って神田警察通りの神田電話局前交差点に出る。サンケイ新聞須田町販売所のビルと「なお井」(飲み屋)の間の路地を入ると松尾神社の前を通って多町大通りの松本家の角に出る。ストリートビューを見ると写真中央の明治洋紙店から右の建物とその店とは替わっていない。

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大信不動産。千代田区神田多町2-9。1986(昭和61)年6月8日

神田多町の中心、多町大通りと一八通りの交差点の角に正面を向けた洋風の看板建築。戦前の建物がしだいに消失していくなかで、建築当時の表面が見られる建物として永くがんばってきたが、つい最近取壊されたという。昭和30年頃の火保図では「塩崎洋服店」。
『神田 大信不動産』によると、大信不動産がこの建物で営業を始めたのは昭和40年2月。



サカエヤクリーニング店。大信不動産隣の銅板貼り看板建築。2軒長屋の形だが右側のほうが戸袋の幅だけ広い。1989(平成1)年3月12日

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吉野家。千代田区神田須田町1-10。1985(昭和60)年2月24日

多町大通りが靖国通りに出てきた交差点で、写真右奥は多町大通り。角に、ビルになる前の牛丼の吉野家が写っている。その右に4棟の古い建物が並んでいるが、不思議とこれが今も残っている。
1986年の住宅地図では、左から、「空家」「吉野家と和栗」「いもや(天婦羅)とKEI」「支那(中華料理)とパンセ」「アンドー」「相子(喫茶店)」。
昭和30年頃の火保図にすでに「相子(かし)」が載っている。角の家は「神田洋品店」だ。


左:1987(昭和62)年12月31日、右:1994(平成6)年2月6日

1枚目の写真右手の家並み。喫茶店の相子は屋上に小屋を造ってしまったが、店の看板は1985年のものから変えていない。支那は3枚の写真にある看板が3枚とも異なる。2007年に撮った写真を見るとまた変わっている。

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吉川商店。千代田区神田須田町1-4。1987(昭和62)年9月13日

靖国通りの南の裏通りになる。外堀通りから多町大通りを渡って中央通りの須田町交差点に出る道路だ。吉川商店は米屋のようだが、今は吉川ビルになって米屋は廃業したようだ。「ヨシムラ」の袖看板の文字は「九代目吉村金兵衛分家 創業明治27年 印鑑と印刷 ヨシムラ」。この吉村印舗の建物が今も替わっていない。


左:久保田織物。神田須田町1-6。1987(昭和62)年12月31日
右:民家。神田須田町1-8。1987(昭和62)年1月1日

久保田織物は1枚目の写真の右端にかろうじて写っている。建物は現存している。建物横の防火用水の水槽は処分されたらしく、今は見当たらない。
右写真の看板建築は多町大通りの靖国通り近くの「庄之助」の角を西へ入ったところ。写真右の空地は「田丸電機、都ビル」の2枚目の写真の駐車場。今はビルになった。2階前面を出窓にした変わった造りだ。正面からも撮影しておけばよかった。

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ヨシムラ。千代田区神田多町2-6。1988(昭和63)年6月5日

多町大通りの塩栄青果店から10軒ほど北へいった辺りの街並み。写真右から、「高久」「ウツキ」「MORE」の入る建物、住宅地図で「田草川」となっている家、3階建の「ヨシムラ」、「トヨタレンタリース神田営業所」、「トライ」「相馬○○」の三鉄ビル、「深津商店」、「神田加藤ビル」である。
現在は2003年6月に開業したホテル「京王プレッソイン神田」が建った。写真の建物で残っているのは竣工まもない加藤ビルだけだ。


左:ヨシムラ。1988(昭和63)年6月5日。右:至誠堂医院。1989(平成1)年3月12日

木造3階建ては法律上禁止されていた、という話は本などで見かける。それでも都内に、今はどうか分からないがまったくないわけでもない。禁止される前に建ててしまったのか、禁止されているのを知らずに建ててしまったか? とにかく堂々の総3階建てで、正面最上部の窓は屋根裏ではあるが4階のものらしい。
すでに店名は塗りつぶされて空家になっているのかも知れない。昭和30年頃の火保図では「株式会社戸沢産業」である。同図には深津商店が「深津家具製作所」となっている。
至誠堂医院は塩栄青果店と同じブロックで、北の路地の角にあった。ネット検索すると神田司町の住所で出てくるからそちらに移ったらしい。

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塩栄青果店。千代田区神田多町2-6。1987(昭和62)年12月31日

一八通りと多町大通りが交差する多町2丁目交差点を西から見ている。写真左からサカエヤクリーニング店、大信不動産、塩栄青果店の古い建物は今も残っていて、空襲での焼失を免れたこの辺りの戦前の町の様子をかろうじて伝えている。この写真では右端にまだ看板建築が見えているが、その建物を撮っていなかったので、この写真で言及しておく。
写真右端の「賀茂鶴」の看板が「しげ福」で、飲み屋だろう。その手前が「傘長」。傘長は手書きで扇子や提灯に江戸文字を書く店で、創業は嘉永5(1852)年という。番傘に字を書いていたのが屋号の由来らしい。多町の歴史を語るには欠かせない店であるようだ。
「まちブログ―神田周辺(2009.12.05)」は傘長が日本橋丸善で行なったイベントを紹介した記事だが、昭和8年の「神田仲通り街路灯建設記念」絵葉書が載っている。神田仲通りとは今の一八通り。その写真では傘長の看板は「傘」の一文字のようだ。傘長の手前の看板建築の家は薬屋である。


左:清栄内装。神田多町2-6。1988(昭和63)年8月14日
右:古賀酒店。神田多町2-4。1988(昭和63)年8月14日

左写真は塩栄の隣の「室内装飾・清栄内装」。右写真は清栄の向かいの辺り。砂場、古賀酒店、茂里屋パン店とも今も健在。茂里屋は元は下駄屋だったようだ。古賀酒店と茂里屋の建物は建替えてはいないが、正面は改装されている。

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