ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




野口工産。台東区根岸4-7。1989(平成1)年3月26日

柳通りの根岸四丁目交差点。写真右奥へ行くと金杉通りの柳通り交差点で、写真右の向かいにある古い日本家屋の本藤(ほんどう)理髪店がわりと知られている。写真の建物は今はビルに変わって、そこに「こゞめ大福」の「竹隆庵岡埜」の店がある。
角に面したガラス戸の字は「鳶・野口工産」と読める。隣の四軒長屋は表面のデザインが同じなので同じ大家さんのものなのだろう。



洋風四軒長屋。1989(平成1)年3月19日

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ぽんた。台東区根岸4-1。1991(平成3)年9月23日

当ブログ前回の「スリーエイト」の写真とあまり変わらないが、レンズが少し柳通りの方向に向いてそこの看板建築の店が見えている。「ネギシ書房」と洋菓子の「ヤナギヤ」だ。根岸の柳通りにあるから文句の付けようがない店名だ。
柳通りが今の道幅になったのは昭和12年頃という。それ以前は4m幅ほどの狭い横丁だったらしい。明治34年の「東京下谷根岸近傍図」には「あんらくじよこ丁」と記されている。安楽寺の山門は写真左奥へ少し行ったところにある。



ヤナギヤ菓子店。1989(平成1)年3月19日


現在もヤナギヤ、ネギシ書房、ぽんたは建物も変わらず健在。金杉通り沿いにマンションが何棟も建って空を隠してしまった。
2008(平成20)年5月7日

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スリーエイト。台東区根岸4-1。1989(平成1)年3月26日

金杉通りの柳通り交差点で、写真右手が三ノ輪の方向。角の家に「スリーエイト」という喫茶店と2階に「ぽんた」というお好焼き屋。その右が「花の音」という喫茶店で、看板で1967年の開店とわかる。次の二軒分がやきとりの「鳥平」。
現在、角の家はスリーエイトに替わって「渥美組」の看板がかかっている。「現場作業員大募集」の看板もあって建築工事関係の会社らしい。「花の音」は建物表面を改装した。鳥平はマンションに建て替わっている。


鳥平
根岸4-1
1991(平成3)年9月23日

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酒の店・ふじ。台東区下谷2-10。1989(平成1)年3月26日

金美館通りの小野照崎神社の向かいである。写真右の車両通行禁止の横丁を入ると鶯谷アパートにぶつかる。写真右の家は住宅地図で「安全商会不動産」だが営業はやめたようだ。現在、この家はなくなって、家並みの後ろの法昌寺の庭になっている。ということは写真の家はみな法昌寺の家作なのかもしれない。居酒屋のふじも今は商売をしていない。


二軒長屋
下谷2-11
2006(平成17)年4月9日

金杉通りの根岸3丁目交差点の南にある路地を入って金美館通りの小野照崎神社のところへ抜ける路地にある二軒長屋で、今も残っている。この細い路地は明治の参謀本部測量図に出ている古い道である。鉄パイプの足場は工事用ではなく、どうも家を補強しているもののようだ。

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速水清新寮。台東区下谷2-2。1991(平成3)年6月30日

言問通りと昭和通りが交わる入谷交差点からちょっと入ったところにあった。現在は写真の家の南にあったハヤミズの駐車場と共に「ハイホーム入谷」という、言問通りに面した大きなマンションになった。
住宅地図では「速水清新寮」となっている屋敷。ハヤミズ家具センターが取得していたらしい。昭和22年の航空写真に写っているから戦前に建てられていたと思われる。この家の向かいは戦災で焼失している。



家の東北の四つ角から。左の道を行くと言問通りに出る。右の道は鶯谷アパートの前を通ってやはり言問通りに出る。写真右端に鶯谷アパートの3階の窓が認められる。1991(平成3)年9月23日


門の表札は「速水」。1991(平成3)年9月23日

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民家。台東区下谷2-5。1991(平成3)年6月30日

写真の道路は鶯谷アパートの前を通って言問通りに出る手前である。ここに写っている古そうな木造民家は、壁を改装した家もあるが今も残っている。写真右の加藤パン店はマンションの1階で商売をしているが、写真の看板を今も使っている。店頭のゲーム機はなんだろう?
この言問通りから昭和通りへ斜めに通っている道路は、明治の参謀本部測量図に出ている古い道である。ということは江戸時代からあったのだろう。明治の地図では坂本村の字小野と字入谷の畑の間を通っている。そして今の言問通りのところで南に曲がって坂本小学校の正門の前の道へ続いている。



路地。下谷2-5。1989(平成1)年3月19日

1枚目の写真中央の家の間の路地。後ろは言問通りの向こうに坂本小学校が見える。写真の路地は突き当たりに長屋が見えているがそこで左右に路地が通じている。左へ行けば金杉通りへ出るから、気兼ねなく入っていける。今でもこの路地の両側に古い民家や長屋が見られる。

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出桁造りの民家。台東区下谷2-5。1991(平成3)年6月30日

鶯谷アパートの前の丁字路を北へいくと金美館通りの小野照崎神社の前に出る。写真の民家はその横丁に入ってすぐ目に飛び込んでくる。出桁造りの伝統的な商家の造りで間口が大きい。2階の連子窓は今ではめったに見られなくなった。建物両脇の雨どいがなかなかの仕事のものだ。1階の左側は住居に改装している。その右、1階中央に張り出しているのは戸袋らしい。
この近所には寺が多い。この家の向かいは正洞院、裏手は英信寺である。



近影。2008(平成20)年5月7日

写真左のマンションは1990年頃に建ったが、その前は秩父荘というアパートだったらしい。それを撮影しておけばよかった。写真右手の幅一間ばかりの家は1990年頃まで「大成火災代理店 入吉」の看板が出ていた。

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正光社。台東区下谷2-5。1991(平成3)年6月30日

鶯谷アパートの向かいで、金美館通りへ抜ける横丁の角にある。屋根は和風の瓦屋根だが一応洋館のようだ。正光社はネット検索すると、冷暖房設備・配管などをする会社らしい。
現在は外壁や窓などが改装されて新築みたいに見えるが外観は変わっていない。建物の角から右へ基礎の部分を石積みにしているのが変わっている。補強のためだろうか。あるいは石張りか?




上:1989(平成1)年3月19日
左:1991(平成3)年9月23日

上の写真は1枚目の家の隣で、やはり正光社だが、日本家屋の前面を商売用に改造したものだろうか。現在は建替えられた。
写真右の昭和通りのほうにハヤミズ家具センターのビルが見える。撮影後数年して倒産したらしい。横長連続窓の昭和通り裏手に建つビルは今もまだ建っているが使われていないようだ。
左写真は洋館のほうの玄関。玄関横の縦長の窓がしゃれたアクセントになっている。

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鶯谷アパート。台東区下谷2-3。1991(平成3)年6月30日

台東区下谷は昭和通りと金杉通りに挟まれた区域で、南の1丁目から3丁目まで南北に長く、北の先端は地下鉄日比谷線の三ノ輪駅に接する。この地区で近代建築というと1丁目の坂本小学校が有名だが、写真のアパートは下谷1丁目と2丁目を分ける言問通りのすぐ裏にある。2000年頃外壁を改装したようだが外観は変化がなく、今も健在である。
『生粋の下町 東京根岸』(文:北正史、絵:沢田重隆、草思社、1987年)に「昭和7年に建てられた東京で最初の三階建て木造アパート」とある。



写真左のコンクリート塀は正洞院(しょうどういん)という寺。1991(平成3)年9月23日

鶯谷アパートの玄関。現在はペンキが塗られてしまった。床のタイルも残っているかどうか。1991(平成3)年6月30日


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台東区立大正小学校。台東区入谷2-23。1989(平成1)年3月26日

金美館通りに面して大正公園があり、その奥、通りから少し引っ込んだ場所にある。当ブログでも古い小学校の校舎はいくつか取り上げてきたが、名称と場所が撮影時と一致する例は少ない。写真は校舎の南西の角から撮ったもの。
大正小学校は1916(大正5)年に東京市大正尋常小学校として開校した。写真の校舎は関東大震災後の1929(昭和4)年に竣工した。東京市での小学校建設のピーク時で、この年には38校が建設された。復興小学校のデザインは多彩だがこの校舎もひとつの例で、設計:東京市、施工:安藤組である。10月5日に落成式が行なわれている。1991(平成3年8月まで使われた。
現在の校舎は1994(平成6)年2月に完成し、1996(平成8)年4月には阪本小学校と統合した。



門の表札はすでに外されている。玄関は区立阪本小学校(現在は廃校、校舎は現存する)の造形とほぼ同じ。1991(平成3)年9月23日

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