ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





月島湯
中央区月島3-28
上:1988(昭和63)年1月17日
左:1990(平成2)年1月21日

清澄通りの西の裏通りで、月島湯の向かいは当時は広い駐車場だった。石井鉄工所の工場跡地である。現在、その駐車場には「サンシティ銀座EAST」という高齢者向け高層マンションが建った。いっぽう月島湯は、ストリートビューで見ただけだが、ただの空地だ。
戦前の地図では「神保湯」の名前になっている。
ここに挙げた写真は2枚とも同じ位置から撮っているから、代わり映えがしない。

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駿河屋酒店。中央区月島3-20。1991(平成3)年1月20日

月島西仲通り商店街の南の入口になる。駿河屋は創業100年になるとしているサイトがあった。駿河屋のHPを見たらすぐ近所だが14番地に2009年4月に移転している。特油商会だった古い建物だから、昔からそこでやってきたような趣である。



駿河屋隣の二軒長屋。月島3-20。1989(平成1)年11月26日

1枚目の写真の左に写っている長屋。現在は取り壊されて駐車場になっている。
住宅地図では長屋の左側が「小倉組」である。同じ家が昭和10年頃の地図に「小倉運送」で載っている。

左:1988(昭和63)年1月17日、右:2008(平成20)年10月7日

左の写真は1枚目の写真と同じ構図だが、店先が見えるので掲載しておく。アーケードがまだ完成していない。駿河屋は移転後じきに取り壊されたらしい。

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きらく、中央保険サービス。中央区月島3-14。1989(平成1)年10月29日

清澄通りの区立月島第一小学校の斜向かい。4軒写っているビルや家は現在もそのままにあるようだ。撮影時では左から、田中ビル(山田司法事務所、レストランとコーヒーの「道」)、酒処きらく、中央保健サービス(住友海上保険代理店)、斧と片山歯科。戦前の地図には「田中畳店」と「片山小児科医院」が同じ位置に載っている。
2001(平成13)年に撮った写真を見ると、田中ビルには「たんぽぽ」というもんじゃ屋が入り、きらくは持ち帰り寿司の「茶月」に変わっている。



ビデオビーム1。月島3-14。1989(平成1)年11月26日

1枚目の写真の右に続く家並み。写真右の看板建築の家は「東京中央不動産」。現在は2軒の家がまとめてマンションに変わっている。

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民家。中央区月島3-21。1989(平成1)年11月26日

月島西仲通りと西河岸通りとの間の裏通りである。写真右の家はすでにないが左の2軒は今も残っている。その左端の家は今は改装され3階まで増築したようだが、和風の正面を損なわないような造りにしている。



民家。月島3-21。2008(平成20)年10月7日

こちらは最近の写真で1枚目の写真の左に続く家並み。写真左端の家は3叉路の角に建っている「ユニオン」の字が日除けに残っているがどんな商売だったのかは知らない。昭和25年頃の地図では「川口鉄工所」。
写真左後方のビルは「味の浜籐」の本社ビル。昭和12年に浜籐商店が月島工場を建設した場所で、昭和26年に本社をここに移している。2009年4月には本社は江東区東雲に移った。
そのビルの前を隅田川のほうへいくと突き当りが「わたし児童遊園」で、そこから隅田川のテラスに出ることができる。妙な名前の公園だと思ったが「月島の渡し」の船着場があったところだった。写真手前は「味の浜籐配送センター」で、「ヤマトメタル工業」の工場があった場所。

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山下鉄工所。中央区月島3-24。1989(平成1)年11月26日

写真の家並みの裏は隅田川で、かつては月島の隅田川沿いは「西河岸通」という町名だったから、写真手前の道路は「西河岸通り」で通じると思う。
写真左の家が「山下鉄工所」の看板を挙げている。写真右のビルは「岡田マンション」。戦前からの「岡田造船所」があった場所だ。昭和38年の航空写真にはドッグに入った船が写っている。造船所の後継者が跡地にマンションを建てたものだろう。写真中央の家がマンションの大家さんのようだ。
現在は2軒の木造家屋は取り壊されてコインパークになっている。岡田マンションはまだあるようだ。


栗田鉄工所。月島3-30
1989(平成1)年11月26日

写真手前の道路は西河岸通りで、隅田川沿いに「月島リバーハウス」というマンションが2棟あって、その向かいである。
写真右の2階建ての家は「青木鉄工所」。栗田鉄工所の建物は外観からRC造のように見えるが、火保図ではRC造の表示ではないので木造かもしれない。

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奥沢歯科医院。中央区月島3-17。左:1989(平成1)年頃、右:1990(平成2)年1月21日

清澄通りの1本西の裏通り。まだ建っていると思っていたがストリートビューを見ると奥沢歯科とその右の家は建て替わっている。関東大震災後に建てられた木造の家はそろそろ寿命が限度に近づいているのだろう。
軒の下に赤色灯が残っている。



柏山稲荷神社。中央区月島3-16。1989(平成1)年11月26日

奥沢歯科の前を南にいってすぐのところ。民家の中にお稲荷さんだから、最初に見たときはびっくりした。いまだによく納得できないでいる。
ぼくは前を通っても拝むでもなく横目に見て通り過ぎるだけなので神社そのものをよく観察していない。『昭和の東京 路上観察者の記録』(路上観察学会著、ビジネス社刊、2009年)によると、灯明台、オコンコサマ、賽銭箱とそろっていて、扉の中は不動明王が祀られているらしい。
鳥居の左に写っているのは「世界人類が……」のポールではないか?

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石井鉄工所月島工場。中央区月島3-26。1988(昭和63)年1月17日

月島西仲通り商店街の南のはずれの十字路の角にあった建物。写真左奥へ行くと月島川で、西仲橋を渡ると勝どき1丁目に入る。
撮影時の住宅地図では「石井駐車場管理事務所」で、建物の南側が大きな駐車場になっている。その事務所なら1室で足りるから、他に入っている会社があるのだろう。昭和25年頃の火保図では「石井鉄工所月島工場」である。なるほど、建物はいかにも大きな工場の事務所棟だ。写真左手の向かい、月島3−27のほとんどが撮影時にはやはり駐車場になっていて、そこが月島での石井鉄工所の主要工場だったようだ。
現在、「レジデンスシャルマン月島」というマンションが建ったが、そこに「石井鐵工所」の本社がある。石井鐵工所は1900(明治33)年に月島で創業。鉄塔、ガスタンク、プールなど大型施設の製作が得意なようだ。昭和12年に本社を丸の内に移したが平成16年に月島に戻した。



石井鉄工所月島工場、西側。1989(平成1)年11月26日


駐車場から見た南側。2001(平成13)年10月20日

普通の人はこんな建物に目を向けることはないと思うが、当ブログのコンテンツと似たところのある下記のサイトで取り上げている。
都市徘徊blog 慶応機械開発研究所
廃景録>消えた近代建築>石井鐵工所



東側の玄関。2001(平成13)年10月20日

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特油商会。中央区月島3-14。1988(昭和63)年1月17日

清澄通りから西へ入って次の四つ角。写真右へ行くと清澄通り、左へ行くと西仲通り商店街の南の端、駿河屋酒店の角に出る。
撮影時の住宅地図では、「特油商会、住宅、山崎牛乳神戸ビーフ」と並んでいる。昭和25年頃の地図では、「特油荒物店、住宅、明治牛乳」。さらに戦前の昭和10年頃の地図には、住民の記憶による書き込みであるが、「油屋、三河屋酒店、マトバ牛乳」、下の写真右の家が「高橋和菓子」である。とすると、特油商会と山崎牛乳は戦前から続いている商家なのかもしれない。
下の写真で、右の家の前に打ちぬいたあとの鉄板が積み上げてある。プレス工場なのだろうか。現在は特油商会の隣の民家がビルに、下の写真右端の家は立体駐車場になった。



1989(平成1)年11月26日

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鳥辰。中央区月島1-5。1988(昭和63)年1月17日

清澄通りと月島西仲通りへ向かう横丁の交差点の角。写真左奥へ行くと、西仲通りの看板建築「第三鹿島酒店」の角に出る。鳥辰の右は千鶴美容院。
現在も店は入れ替わったり廃業したりしているが、角の看板建築の家とその奥の二軒長屋の建物は変わらない。



二軒長屋。1989(平成1)年10月29日

写真右の看板建築が鳥辰の入っている家。二軒長屋の右側は稲見炭店。黄色の丸い看板が懸かっているが、練炭の看板である。ガラス戸には「木炭」と書いた紙が貼ってある。長屋の左は「長沢自転車店」だった家。
下の写真では稲見炭店の右のブロック塀に「ダイヤアイス」と書かれている。さいころ状の氷のことで、氷も売っているのだ。あるいは氷屋といったほうが正確なのかもしれない。戦前の火保図に建物の「炭ヤ」の注の書き込みで「のしろ氷屋(冬はたいこ焼屋)」とある。



稲見炭店。1991(平成3)年1月20日

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三谷葬儀社。中央月島3-7。1989(平成1)年11月26日

清澄通りと月島西仲通りの中間の四つ角。写真左へ行くとそば屋の久月の角である。洋風にした看板建築に見えるが建物の後ろに屋上への出入り口があり、陸屋根の屋上になっているように見える。昭和22年の航空写真に写っているのがそのような建物なので、やはり戦前の建築なのかもしれない。
三谷葬儀社はそこのHPによると、1936(昭和11)年の創業という。現在は4階建ての小さなビルになっているが、建物左の部分が一戸建てのようになって残っている。



三谷葬儀社の裏の家。1990(平成2)年1月21日

1枚目の写真右奥の裏通りから撮ったもの。下見板貼りの家は、前記した航空写真では空地になっているのでたぶん昭和25年頃に建てられたものではないかと思う。
現在は取り壊されて、この家の奥のほうまで空地になっている。三谷葬儀の並びを含めて再開発するのだろうか。

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