はてなキーワード: 異論とは
その1 http://anond.hatelabo.jp/20081223235800
その2 http://anond.hatelabo.jp/20081224002406
その3 http://anond.hatelabo.jp/20081224004222
(G-3面左下)
11月下旬の3連休、白川は自宅にこもり、講演に使う原稿や資料に熱心に手を入れていた。
26日に予定されている東大での講演には、自分の年来の主張を存分に入れようと思っていたからだ。
「流動性と決済システム」と題したこの講演で、白川は「学界でもマスコミでも金融政策に対する関心が非常に高いが、それが金融市場や決済システムへの無関心の裏返しなら不幸なことだ」と力を込めた。
白川がこれまで、最もやりがいを覚えた仕事は、金利の上げ下げといった華やかな金融政策ではない。「決済システムの進化」という、地味な分野である。
世界では、毎日何百兆円という資金が動き、ある金融機関が倒産すれば、資金繰りに困った金融機関が次々に破綻する危険もある。
企業や銀行の間で日々行われている資金のやりとりは、日本銀行にある民間銀行の当座預金で最終的に決済される。この決済にかかる時間を「即時化」すれば、銀行が思わぬ損失を被ったり、連鎖倒産のリスクを減らしたりすることができる。
白川は、そうした決済システムを改善する仕事に、「モノづくり」にも似た達成感を覚えるという。
シカゴ大学留学時代、市場主義の権威ともいえるミルトン・フリードマンらの影響を受けた。今でも、「市場の機能は大切だと思う」と記者会見などで繰り返す。
ただ、決済システムの仕事を通じて、経済は「自由放任」だけではうまくいかず、「制度設計」は重要だという思いを強めた。
今回の世界金融危機でも、「決済」や「制度設計」の重要性が浮かび上がった。リーマン・ショックの後、各国の金融市場でドル資金が枯渇し、金融機関がドルを入手できなくなる事態が起きた。FRBは、日本など各国の中央銀行とお互いの通貨を交換する協定を結び、各国の金融機関にドルを供給する仕組みをつくった。日銀は、FRBの打診を受ける前から、協定について独自に検討を進めていた。
白川は総裁就任に先立って、日銀法を改めて読み返した。その第1条には、決済や金融システムの安定を意味する「信用秩序の維持」が記されている。
そもそも、世界の中央銀行の多くは、金融システムの危機管理を目的として誕生した。「金融システムの安定は、日銀の最も大切な業務」と白川は職員たちに説いている。■
世界の中央銀行のトップで近年、圧倒的な存在感を示したのが、米FRBのグリーンスパンである。
レーガン政権の1987年から現ブッシュ政権の2006年までFRB議長を18年半も務め、「カリスマ」「巨匠」などと呼ばれた。今でこそバブルをあおった戦犯のように批判を浴びているが、グリーンスパンの巧みな市場操縦術はつい最近まで、セントラルバンカーのお手本だとされていた。
グリーンスパン礼賛の世評があふれるなかで、早くから懐疑的な目を向けてきたのは、ソロモン・ブラザーズ出身のエコノミスト、ヘンリー・カウフマンだ。グリーンスパンの金融政策は、「緩和的すぎる」とカウフマンは見ていた。白川は、親しい知人らには、カウフマンへの賛意を漏らしていた。
白川の友人に、元FRB調査統計局長のマイケル・プレルがいる。まだ現役の局長だった1999年、スピーチでこう述べている。
「企業経営者や消費者、投資家は、FRBを過大に信認し、経済や金融市場のどんな衝撃でも吸収できると思っているため、本来ならとらないようなリスクまでをとっているのだろうか。だとすれば、金融システムは現時点で容易にわかる以上に不安定になる可能性がある」。FRB内部から「グリーンスパン神話」の危うさを指摘したものだったが、プレルは少数派だった。
グリーンスパンの強みは、その組織掌握力や政治力にもあった。異論が噴き出しそうな会議の前にはしっかり根回しをし、政治家にもこまめに接触してFRBへの支持を広げた。厳しい追及を受けそうな記者会見は行わず、有力紙の特定の記者とは懇談し、情報を流す手法を取った。
こうした老獪さで「グリーンスパン神話」と「資産バブル」は加速した。が、その反動もまた大きかった。
就任してまもない白川をグリーンスパンと単純には比較できない。
ただ、戦後初の賛否同数というきわどい決定で利下げが決まった10月31日の会議の後、市場関係者からは「総裁としてのリーダーシップが乏しいのでは」と不安視する声が出た。
今月19日の追加利下げも、政治家や市場の催促を受ける形で「追い込まれた印象」がぬぐえない。市場関係者からは日銀の対応が遅れ気味との指摘が多い。「早めに大胆な企業金融の支援策を効果的に打ち出しておけば、追加の利下げには追い込まれなかったかもしれない」との見方もある。■
ブクマに
どんどん語って文字にせよ
とあったので、↓これの続き(補足)を。
http://anond.hatelabo.jp/20081223011009
1. <「ネクラ」「マニア」「おたく」「オタク」的な人>の定義とその変遷
こんな感じでどうでしょうか。
異論反論もあるでしょうが、まずはちょっとアイデンティティ(Identity)についてお話させてくださいな。
自分は、アイデンティティーには2つの種類があると考えています。
ひとつは「能動的アイデンティティー」。もうひとつは「受動的アイデンティティー」です。
「能動的アイデンティティー」は、自らが<何か>に属していると自発的に感じるアイデンティティーです。
アメリカに長期滞在し味噌汁が飲みたくなった時に「あ、俺も日本人なんだな」と感じる。
これが能動的アイデンティティー。
「受動的アイデンティティー」は、他人が自分に対しカテゴライズする/タグをつけることにより意識されるアイデンティティーです。
道を歩いていて「hey jap!」と侮蔑されたときに感じる「あ、自分は日本人なんだな」と感じたときのアイデンティティーです。
ここで注意しなければいけないのは、一般的には能動的アイデンティティーは<想像されたもの>でしかないということです。
ブイヨンスープを飲みたくなればフランス人なのかというわけではないし、「就職は結婚、同僚は家族みたいなもの」と口で言いつつも、
「会社人間」という自己言及がフィクショナルな物だというのを多くの人は理解できると思います。
ふぅ、ここでやっと「おたく」の話。
本来、「おたく」という言葉で表現されるような人々は「呼ばれる」ことで
受動的にアイデンティファイされてきたわけです。
こんな感じで
・「あー、君の事もっとネクラな人かと思っていたよ」(「暗い奴」という蔑視)
・「すごく詳しいね。○○マニアだね」(「詳しい人」という尊敬・排除)
・「それっておたくが読むものだよね?」(イミフなものは全部「おたく」と呼んで排除)
・外で遊ばないで家でなんかやってる人→ネクラ
・コンパとかマスが認めるカルチャーに興味がなくて、漫画とか変な本とか読んでる人→おたく
なので、「ネクラ」と言われると「そうかなぁ?」と疑問に思い、「マニア」と言われるとちょっと喜んで、
「おたく」と言われると意味がわからなくて「???」となるわけですよ。
(なぜこの「ネクラ」「マニア」「おたく」の中で「マニア」と呼ばれることだけが喜びにつながったのかと言うと、
「マニア」だけは特定ジャンルですごい人・コレクター・収集家の意味を持って使われていたからです)
んで、時は過ぎ去り例の事件後、岡田さんが「おたく」な人たちのことを「オタク」と言い換えて、流通に乗せたわけです。
(大塚英志氏などは、「おたく」から「オタク」に移行したときに宮崎勤的な「何か」が抜け落ちたと批判している)
(「おたく」から「オタク」と言い換えられたとき、マンガ・アニメ・ゲーム文化が「なぜか」中心となった)
それまでは「店頭に飾ってもらえるくらいにプラモデル作りがうまくなりたくて毎日プラ屋に通う少年」とか、
「マンガ絵が好きでファンロードに投稿する少女」とか「鉄道が大好きで教室でマイ路線の時刻表書いてる奴」とか、
「家にあるゲームをやりつくし、怪しげなソフト屋に通うマイコン少年」とかが一律「おたく」であったのに、
なぜかいつの間にか「美少女とかアニメ絵が多用されているマンガ・アニメ・ゲームを消費する人」が
「オタク」のメインであるかのような「幻想」が流通してしまったのが現在なのです。
我ながらなげぇと思うけど続き
自分史的には、ぬるとかガチとかって対立構造が存在した記憶がない。
そもそも「おたく」な人は
なわけだし、お金と環境(部屋の広さとか)と時間が許す限り(程度差はあれ)没頭するのが「普通」だったので。
マイノリティ同士だから基本互助的だし、濃い人つまり金持ちは単純にスゲェとしか思わなかった。
新参が来ても友達少ないから、むしろ逃げられないように大切に扱ったしw
(ヌル鉄とがガチ鉄なんていない。全員「アツイ」から、濃淡は金・環境・時間の差でしかなかった。
金もつとプラ好き少年はジオラマ、マンガ絵少女は同人、鉄は全国旅行、マイコン少年は新機種と「相場」が決まっていた)
だいたい、自分たちのことを「おたく/オタク」とは思ってなかったしね。
受動的にアイデンティファイされただけだから、自分たちのことは
マンガ好き、軍事マニア(ミリタリー好き)、鉄道ファン(鉄)とか思ってた。
仲間内で受動的アイデンティティーの確認なんてもちろんやらない。
日本人が日本人に「あなたは日本人ですね」と言っても意味がないように、
ネトウヨが朝鮮系日本人のことを「チョン」と言うように、「外部」の人が「おたく/オタク」って言及してた。
一昔前は呼ばれてはじめて「ああ、おれって『おたく』って呼ばれる存在なんだなぁ」って気が付くもんだった。
仲間内で(濃淡じゃない)興味の「深い浅い」がヒエラルキー化したのって、たぶんネットの影響で「連帯」できるようになってからじゃないかなと思う。
「ぬるヲタ」とか「ガチヲタ」とかって、昔は問題になんかならなかったしね。
(まぁ、今ほど情報・作品があふれてなかったってのもあるけど)
(淡から濃に行かない奴は、そもそも「おたく」と呼ばれていない)
(言及するために「発見」された?)
(周囲の雰囲気変わったなぁと思った時期は、「スレイヤーズ」「天地無用」「ときメモ」「サクラ大戦」
「エヴァ」「ブギーポップ」「ビバップ」「ハルヒ」らへん。倍倍ゲームで「オタク」が増えた印象)
自分としては、岡田さんが"Yes,we are niggers.What's wrong with that?","Black is beautiful "的な意味合いで
「オタクで何が悪いの?マンガ面白いでしょ?」って開き直ったという歴史を知らない若い子が増えたんだと理解してる。
それ自体はいい/悪いではないけど、意味もわからずファックミーTシャツを着ている人を見ちゃうような気まずさはあるよね。
を書こうと思ったけど、長すぎるから割愛。
リブロ-ABC-ビレバンに対する中野タコシェ-新宿模索舎的なカウンターを担っていたような気がする。
http://anond.hatelabo.jp/20081213141956
これにも関連しているけれども。
常野さん、こんなことばっかりしてたら、英語圏であろうが日本語圏であろうが「一流」になんかなれっこないよ。こんなことしてる暇があったら、論文書いて投稿するとか、知り合いの編集者さんに原稿読んでもらって、企画きちんと立てて売り込んで、とにかくちゃんとやろうよ。ちゃんとやろうと思えばやれる人なんでしょうあなたは。今だって語学教師としてはそれなりの自負があるんでしょう。だったら研究者として、あるいはライターとして、まともな仕事をしようよ。
ネットジャンキーでブログがやめられないんだったら、こんな下らない煽りじゃなくて、それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツをきちんとあげようよ。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20081214/p1
稲葉先生は確かに御親切で、常野氏にこう説かれているのだろうとは思うけれども、それはあまりにも相手に対して残酷だと思います。常野氏はもう31、分別がある年齢です。自分の能力も見えてきた年頃の人間が、精一杯考えて、自分がもっとも目立てる手法を選んだのがあの自爆テロだったのですよ。31ですよ、いい大人じゃないですか。そんな人間が、
「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」
とまで幼稚な詭弁を口にしたんですよ。傍から見たらどうみても「みっともなさ」の極致です。でもそれは、常野雄次郎という人間が、現実に持っている存在感、レトリック能力、それを最大限駆使して、自分でもっとも適切な言動だと思って選び取ったものですよ。しかし、確かにこれが彼にできる精一杯のところでしょう。
常野氏の新しいエントリーで、
最後にあずまんへ個人的なメッセージ。
「煽る」っていうのはこういうことだよ。
井口先生じゃいい人すぎるから。
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081215/p1
こう書いている。姜尚中ですよ。東さんと今回の件でなんの関係があるのか。要は、常野氏は論壇の有名人なら誰でもいいのか。次は黒柳徹子でも呼ぶのか。みのもんたか。これを読めばよくわかるように、常野氏はもう言論人として真面目に名を成そうとかそういう努力は、投げちゃった人なんですよ。彼がいま考えているのは、「論壇」の「顔役」と絡みたい、それで目立ちたい、しかしそのために自分の言葉を磨く、そういう努力は一切しない、そんなことです。なんでこうなるのか。彼がもう自分の能力を見切ったからですよ。本人がそうである以上、他人がどうこう言っても詮無いことです。稲葉先生のエントリーのコメント論で書いていますが、
私信よりもこうしてブログに書いてくれる方が百万倍うれしい。アクセスが増えるから。ただ、これはあずまんにも再三お願いしたことなんだけど、リンク貼ってくれませんか。Nさんの件で経験したんだけど、稲葉さんに紹介されるとアクセスすごいんだよ。できれば、↓にお願い。
なんというアクセス乞食の成れの果て。でも、もう常野氏には手段を選ぶ余裕はないのです。31ではもう、過去の彼のように、不登校ネタを売りにすることは無理がある。そもそも不登校なんて珍しくなくなってきている。彼は彼の売名欲的上昇志向を(敢えてここでは成功妄想とは言わないですが)支える手段が、齢31にしてなくなってしまって、難しいポジションなのですよ。
いや、こういうことはもう、稲葉先生は百も承知でしょうね。その稲葉先生に対して常野氏は叫び続ける。
僕は本気で「一流」になりたいと思ってる。しかもその素質があるような気がする。ただ努力を怠っている。勉強をサボっている。何かやっても、とんちんかんな方向に行ってしまって、進歩しない。それについて悩んでいる。
僕は「一流」になりたい。ちやほやされたい。500年後の図書館に本を残したい。強い願望です。
赤の他人からこんなこと言われても困りますよね、誰だって。常野氏のこの発言を目にしたら、大人なら誰でも思うでしょう。
「努力を怠っている。勉強をサボっている。」自分でもそうわかっているような人間が、なんで「一流」になれると思うのか、素質があると信じられるのか?
夢見る中学生じゃないんですから。いや、こういうことを言うと真面目に勉学やスポーツや芸術に励んでいる中学生に失礼だ。たとえ素質があっても、なにかの分野で「一流」とみなされる存在になることは簡単なことではない。つい易きに流れるのが人間でしょう。でもそれを省みて、また頑張ってみるのも人間で、多くの人はそうやって一流とまでは行かずとも準一流、二流くらいにはなる。常野氏は31にしてその入り口にさえ立っていない。立つことはできない。彼は立たないことを売りにして生きてきたからです。
「登校拒否系」の常野氏は、言論人である東さんに対して、言論人志望者としてまともに対することをしなかった。東さんの発言を批判したいなら、普通に一人で大岡山に行って、「東さん、あなたの発言にわたしは異論があります、それについてはこのような形でまとめてきました、この場は東さんが責任を持たれている講義の場ですからここですぐ対応をされるのは難しいでしょうから、自分のブログでもこの意見を発表しようと思います、よろしければご覧になって下さい」と言わなかったのか?代わりに常野氏はどう言ったか。
あずまんと波長が合いそうなネット右翼の諸君もたくさん来たらさらに楽しくなると思うよ。
糾弾会みたいなのは今回はやめとこうね。
こう言ったのです。誰がどう見てもこれは威嚇であり、脅迫です。東さんがこんなことを書いているのが来ると知らされて、友好的に対応するはずがない。学生になにかあったらどうするか、考えるのが当然です。それを見越して常野氏はこう書いたのです。後から言い訳はなんとでも言えるが、「そんなつもりはなかった」と後から言うのは脅迫者の常套手段です。
なぜこう言ったか?結局は常野氏が避けたのですよ、まともな議論を促すのを。彼は自ら望んで、「下らない煽り」に終始したのです。
それはなぜか。常野氏はもう、まともな言論人志望者であることさえかなぐり捨てているのですよ。彼はとにかくアジテーターとして目立って、名を売って、「ちやほやされたい」だけなのです。つまり、かつての不登校児が自分の無様なプライドを慰撫したいだけなのですよ。
言論のプロを目指すことは、悪いことではないでしょう。それならば、質の高い議論をする、そのことで少しずつ自分の存在感を高めることが王道でしょう。それをしたならば、図書館に五年なり五十年なり、その議論は痕跡を残すでしょう。その道を目指さない常野氏は、もう、負けたんですよ。そしてそれをいうならば彼は、これまで勝とうとしたことがない人生ですよ。それで「とんちんかんな方向に行ってしまって、進歩しない」でいないはずがない。それでなにか成果が上がれば、それは奇跡です。稲葉先生くらいのキャリアをお持ちの方なら、そんなことはもう、見えている。でも稲葉先生はこう呼びかける。
常野さん、こんなことばっかりしてたら、英語圏であろうが日本語圏であろうが「一流」になんかなれっこないよ。こんなことしてる暇があったら、論文書いて投稿するとか、知り合いの編集者さんに原稿読んでもらって、企画きちんと立てて売り込んで、とにかくちゃんとやろうよ。ちゃんとやろうと思えばやれる人なんでしょうあなたは。今だって語学教師としてはそれなりの自負があるんでしょう。だったら研究者として、あるいはライターとして、まともな仕事をしようよ。
ネットジャンキーでブログがやめられないんだったら、こんな下らない煽りじゃなくて、それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツをきちんとあげようよ。
常野氏を擁護する人は、いろんなことを言う。例えば東さんだって、柄谷さんの法政の講義に潜り込んで、それでデビューのきっかけをつかんだという。でも東さんは、ちゃんと潜り学生なりの作法を踏んで、威儀を整えて、ソルジェニーツィンについての原稿を見て下さいと持って行ったわけでしょう。そのときの東さんは、柄谷さんに「彼の原稿なら読んでみよう」と思わせるだけのアピールをしたんでしょう。これは卑屈とか取り入るとか言うことではない。真っ当な手順を踏むと言うことです。
かたや、常野氏はなにをやったか。
あずまんと波長が合いそうなネット右翼の諸君もたくさん来たらさらに楽しくなると思うよ。
糾弾会みたいなのは今回はやめとこうね。
「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」
といじましい嘘をついたのです。そして自分は最初、この経緯を隠して、常野氏の取り巻きは東さんを「ださい」だのなんだの罵った。「はてサ紅衛兵」は今回は東さんをリンチすることには失敗したようですが、その代わりにこういうかばい合いは発達しているのですね。でも、こういうデビューをする「言論人」なんてありえないでしょう。
あずまん、そうとう男を下げちゃったな。今回。
そこで僕から超ウルトラスーパーCの挽回策を提案します。
僕をゼロアカ優勝者にしてください。
知らない人のために言うと、講談社から10,000部の本が出せるというコンテストです。
そしたら、みんな思うと思う。あずまん、大人だなって。器として。これだけのいきさつがあった上でそうしたら。思わん?
常野氏のはなしは、なんでもやっぱりここに戻ってくる。目立ちたいよう、お金が欲しいよう、みんな僕のことをかまってよう(涙)。僕の話を聞いてくれよう、だからみんなで押しかけるよ。
どこまで虫がいいんだろう(呆)。教室を騒がせてここまで迷惑をかけた相手に、なお自分の売名への協力を呼びかける。もともとこれが言いたくって、東さんに絡んだんだろう。でもこれは、常野氏がもう他人が見えなくなっている、他者の心情を忖度できなくなっていることを実証しているだけですね。「これだけのいきさつがあった上で」「大人だなって」思わせるとかいうのは、正々堂々論陣を張って批判された場合であって、なんで「プンスカ、プンスカ、ピュー!」とか東さんをいかにも戯画化して書いていたアジテーターがその当の相手にまともな対応を期待できるのか、わからない。まして、SF大会なんかから何年も東さんに粘着しているストーカーまで同行して、これは嫌がらせ以外の何者でもない。まして常野氏はなおもこうも書いている。
糾弾っていうのは、たんに相手を傷つけるためにやるものではない。そうではなくて、相手に自分が間違っているということを自覚させることが重要とされる。だからそれは愛情と憎悪が複雑に絡み合った興奮から始まる。
けど、僕は歴史修正主義者に対して1%の希望も持っていない。必要なのは、対話でも説得でも論争でも、まして糾弾ではなく、暴力だ。
これはまたはっきりとした脅迫だなあ。「自分が間違っていると言うことを自覚させる」ために必要なのは「暴力だ」そうですが。常野氏にはもう、良心なんか残っていると期待はできないね。
稲葉先生はd:id:NakanishiB氏にも「まとまった原稿を書いて持ち込む」ことを勧めるけれども、自分が書きたいように書ける自費出版の同人誌に書いてなおパッとしない人に、いまさら広い土俵に連れ出してもなにもできないでしょう。かつてNakanishiB氏は小田島隆さんにもその悪文をたしなめられていましたが、残念なことだけれども、文章を書く力があまりにも独特な発達を遂げた人は、もう、まともな文章は書けない。
id:gerlingがこれもコメント欄に書いていたけれど、
> それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツ
そんなものできないから東とかはあんな惨めな真似をしてるんですよ。
これは東さんではなく、常野氏やNakanishiB氏への当てつけに読めてしまう。人が悪いなあ。東氏の本はお金を出す人に読んでもらえているでしょう。それへの真っ当な批判なら、またそれにもお金を出す人がいるでしょうが、
「ブログを通して出てるんです、入っていいでしょう」
こういう人には誰もお金を出さない。常野氏は、この先、どうのたうち回って「一流」の夢を断念するまで足掻くのでしょうかね。それまで、いろんな人に迷惑をかけそうですが。
「第二次」が名称としてマイナーというのはその通りなので別に異論はないけど、作家としては超メジャーなので言及しておくよ。
昔の小説家の「第3の新人」も第2が見当たらなくね? なんかはあるんだろうけどさ。第2に相当するもんが。ただマイナーっつうか。
俗に第一次のあと、第二次と言われた人々は、小説の手法などを一気に革新し戦後小説の世界を開いたと言われています。
「世界のミシマ」こと三島由紀夫、「ノーベル賞候補」だった安部公房、「全身小説家」こと井上光晴。
他に「出発は遂に訪れず」で有名な元震洋特攻隊隊長、島尾敏雄。「広場の孤独」の堀田善衛など、知らなきゃモグリっつー人々です。
相当重要な人々であって、日本文学史を語るには欠かせない。名称ももっとメジャーになると良いなあ。まあ周囲が勝手に名付けただけで徒党を組んだワケじゃないし、そもそも名称なくても全然構わない存在感がある人らだからいらないと言えばいらないんだけどね。
id:kaienさんの質問に答える - ハックルベリーに会いに行く
ハックルベリーはいい加減うすらバカをからかうのは止めろ
見てて痛々しい(うすらバカが)
「はてなーのオタク」とは、例えばid:HolyGrailのような人物だ
あるいは、id:kanoseが「あの人に質問して返ってきているのは見たことないが」などと書いたり、id:ululunが「なるほど。このエントリをDisろうとすると元ネタをもDisる事になる、という罠という事か。狡猾だな」などと書いたりすることもそうだ。
HolyGrailは違うだろ
オーツネから粘着気質を引いた男と形容すればいいのかな
異論はいっさい認めない
世間では企業の内定取り消しが話題になっているが、諸外国の先進国の事例など読めば読むほど日本の企業って凄いって思う。
・内定はもらった生徒側は自由に破棄できるが、企業側がやったらバッシング。
・合法リストラができないから「希望退職募集」をせざるを得ないが、普通にクビきるよりはるかにコスト高だし、不況でリストラが必要な時期なんて誰も自分から辞めたがらないから意味がない。
・一度正社員の給料やポジションをあげると、なかなか下げることができない。
こんな不自由な制度の中、よく日本の企業は世界で台頭できたと感心する。逆説的に考えると、これらのゆがんだ制度を維持するために「派遣・パート差別」「サービス残業」「天下り」「新卒信仰」などのゆがみが生まれたんだと思う。
「内定取り消し」「派遣首切り」のニュースを見て怒り狂っている人は、一度デザイン系や映像業界の仕事をしている人に聞いてみるといいよ。中小のデザイン会社・映像制作会社では通常「お試し期間」みたいなのがあって、最初の数ヶ月で使い物にならないと判断されると簡単にクビになったりする。少なくてもこういった業種に詳しい人から見ると「内定取り消し」であんだけバッシングされて、100万円の迷惑料を払っても「まだ足りないぐらいだ」なんていわれる一般業種がとってもゆがんで見えるよ。
「こういった職種は特殊な例にすぎない」と思っているキミ、たしかに今はその通り。だが日本の経済システムが確実に変革しているこの時代に、既存の雇用システムを盲目的に頼っていると痛い目を見るよ。上であげたような「特殊な事例」はこれから日本でもどんどん増えていくだろう。いや、増えていかなければ日本経済は成り立たない時代にきているのだ。他の先進国を見渡せば、日本の正社員保護の雇用システムこそが特殊なのだ。
id:rajendra 4要件に当てはまれば整理解雇は出来るし、どこの業界にも試用期間はあるし、いろいろおかしな記事だな。ちゃんと他の社会保障制度とのバランスで見てね。
この「4要件に当てはまれる」のが困難だから、わざわざ割高の退職金をだしてまで希望退職募集をしていると思うのだが?それに1年以上前から内定だすような企業って、実際に新卒を雇ってから数ヶ月の試用期間後に解雇とかって聞いたことないよ。
id:fuldagap 学生は内定を自由に辞退できるけど複数持ったままではいれないとか、解雇のしにくさは社員の副業や転職のしにくさだとか、「諸外国の先進国」が失業給付・職業訓練に厚いこととか分かっているのかしら?
そりゃ最終的に入社できるのは1社だけだから本命以外はいずれ辞退せざるをえないでしょう。
id:chintaro3 代わりに派遣の給料が海外並みに上がれば言うことないんだがね。/新卒が重宝されるのは、転職組におかしなやつが多すぎることの裏返し
そもそも「派遣」というポジション自体が日本独特なので比較は無意味。イギリスやアメリカの正社員は簡単にリストラされるので、立場的には派遣と変わらない。
id:SeiSaguru どうせ変わるんだったら、企業にいい風ばっかりじゃなく、働く側も主張してこーぜ。給料こんなんじゃたりねーぞ! とか もっと休みくれよー とかさ。
同意。これに関してはもっと中国人を見習って、不当な職場では社員全員でストライキ決行などしてもっとわがままになっていいと思う。
id:hanzo22 とにかく新卒至上主義がまずい。ここから脱却できればもっとバランス良くなるよ!
おっしゃるとおり。
異論・反論があるのは大歓迎なんだけど、「ばかのみほん」とか「経団連の犬」とか人格批判に走る人ってなんなの?おれ、特定の誰かの中傷なんてしてないぜ?
そもそも、専門的知識を持たないド素人であり単なる思想オタクであるところの「知識人」が、己が「知識人」であるという理由のみで何かについて権威的に意見を述べることのできる時代はとっくに過ぎ去った、というのは東が何年も前から歴史学に限らず様々な分野について繰り返し言っていることで今に始まったことではない。ちなみに、思想オタク云々までは東は言ってないと思うが、早い話がそういうことだろう。
もちろん、歴史修正主義者の主張の誤りを専門的見地から批判すること自体は今でも十分可能だ。しかし、「知識人」であるというだけで歴史学について専門的能力を持たないデブのおっさんに、何かしらの「義務」があるという主張には同意しかねる。それは歴史家(や能力ある有志)の仕事だ。そうでない東が何事かを「権威的に」述べても、思想家としての倫理的にも現実問題としても単なる信仰告白以上の意味を持たない、というのがネットを舞台に言論を戦わせてきた思想家の至ったとりあえずの結論なのだろう。
そのような風見鶏的態度は許されない、という批判の傲慢さについては既に批判を加えたので繰り返さない。東の態度は、正否はともかく「公共圏」という概念に対する真摯な取り組みの一つの帰結であることは確かなわけで、そこに取り組まずにいくら「知識人の責任」なるものを振りかざしても、議論はすれ違うだけのように思える。なお異論がある向きは、近々刊行されると思われる「思想地図」のvol.2をあたってみるのも良いのではないか。目次を見る限り、おそらく引き続き公共性問題が話題の中心になると思われるので。
「どれだけ絶望しようと対話の中から公共性を見出していこうとする」態度は、個人的には肯定する。しかし、それはやはり自明ではないし、まさに自明であるとすることが「公共圏」の範囲に恣意的な境界線を引くことである、というのが東の議論なわけで。
追記:
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081207
焦ることなくちゃんとした意見をまとまった形でネットに掲載すれば、人はいつか読むのだから。情報の断片化に対して、あきらめの態度をとるのはいかがなものかと思う。断片化する世界を工学的に乗り越える(政治!)、のではなく普通にテキストを機関銃のごとく書きつづけるのがホンモノのポストモダニストではなかろうか。
東はしばしば「知識人としての自分」と「個人としての自分」を区別して語っているので、後者としては同意するんじゃないかなぁという気がする。しかし、書籍というパブリックな場における「知識人としての自分」はこういうことを言わないのが思想家の倫理である、と思っているフシがある。
繰り返すけど、歴史学に関する専門的な能力のない東が機関銃を手にテキストを撃ち続ける義務がある、とする主張は誤りだと思う。それは、あなたや私や志ある人ややりたい人がやればよくて、そしてそのことには意味があると私も信じる。そのこととは別に、「歴史修正主義者も自分では確固としてそう信じており、その信念を否定するのは難しい」という東の議論は基本的に正しいし、きちんと取り組む必要のある課題だと思う。
というか、「東は正統なポストモダニストか」という論点はあんまり意味がないと思うんですけどね。「東はデリダの教えを受け継いでいない」という主張が真だとして、東の公共性に関する議論を否定できるわけではないし(東が至った絶望というのは東個人がこれまで出会ったものに強く関係しているのだろうし)。もちろん、デリダがどう言っていたかを調べることで、新しい視点が出てくるということはあるかもしれないけど。
10万前後の機種ばかり見てるので、3万代など眼中になし
10万台を買うなら20万台を買うかコンデジのほうがよいと思う。個人的主観だが。でも絶対に入門機だとそれ以上のがほしくなる。女の人が使う場合は重さで入門機をすすめられると思うが、レンズなどに凝りだすとそれなりにいいのは撮れるけどわかればわかるほどフルサイズ機がほしくなるので買うなら20万くらいは覚悟すべき。
夫婦で使うんだから少し高くたっていいじゃん(俺は使う気なし)
安物買いの銭失いにはなりたくない
重いのかって持ち歩けないってのが一番銭失いだし、正直入門機は銭失い(得るものもそれなりに多いし悪いとは思わないが)になりやすい。買うなら、少し高いではなくかなりにすべき。かなり高いが買えないならとりあえずコンデジなり中古なりで我慢すべし。
SDが現実的だがSDじゃなくてもケーブルでつなげばパソコンで管理できる。ていうかSD以外のメモリを使うカメラは今ほとんどないんじゃないのか?
パソコンで管理というならアナログでとってフィルムスキャナ買って取り込めば同じこと。
あんなうまく素人が撮れるわけないのに。
それがとれちゃうんだよなー。だからほしくなっちゃうんだよね。調べれば調べるほど上位機がほしくなるし。
ただ、展示品はカメラというよりはレンズがいいのでその辺は気をつけたほうがいい。ボディだけ買うならともかく、レンズもセットで買うなら展示品で撮るときのようにきれいにはいかない。
ISOは感度。見るポイントとしては撮像素子サイズ(被写体深度が変わる)、ISO感度、画素あたりかなぁ。個人個人で違うが連写とかAFとかを気にする人もいるが。
て言うか増田も一緒にはまっちゃえばいいんじゃね?写真楽しいよ写真。
カメラはボディよりもレンズに凝ったほうがいいって言ってみてもいいかも。まぁレンズも高いですけどね。レンズ込みで拡張性が高いほうがよいというのならボディは中古で安いのか安めの入門機を、レンズは数種類揃えるとかにしてぼちぼちやっていくのがいいんでは?んでいいのほしくなったらボディだけ買いかえる。10万代は帯に長し襷に短しな気がするよ。あくまでも個人的見解で異論は大いに認めますが。
トラックバックを貰っていたので取りあえずその件に関して考えてみようと思う。
以下、引用はhttp://anond.hatelabo.jp/20081130112107より
どうしてRecent EntriesがTOPに来ていると、コミュニケーションを取ることが全面に打ち出していることになるんだろうか?
サービスのTOPページに最新情報が表示されることはコミュニケーションを想定したサービス以外でも普通にあることだと思うんだけど。
これに関してはどの時点を指して「まずidページがTOPに出てきてしかるべき」と言っているんだろう?
ハイクにアクセスした時点?ログイン状態を保持したままアクセスした場合ということだろうか?
ちなみにhatenabarを使ってアクセスした場合、ハイクボタンを押したらまず自分のページに飛ぶんだが、そういう意味じゃないんだろうか?
もしhatenabarを使わなかった場合、ハイクのTOPに飛ぶわけだけど、それははてなの他のサービスも同じだから、はてなのサービス全体の統一感を考えたら妥当な遷移だと思う。
なのでそれを理由として、「真っ白なノート」としてはてダのほうが適切という気には特にならない。
申し訳ないけど、どういう意図で書いてあるのかこれだけでは私には良く分からない。
なので「そういう意味」がどういう意味を指すのかも良く分からない。申し訳ない。
それはさておき、ハイクがコミュニティ化しやすいサービスであるという事に関しては私も異論はない。
私はハイクの使い方は人それぞれの自由で構わないと思っているので、交流をメインとしたコミュニティ的な使い方も選択肢の一つだというのも理解できる。
だけど決して「ひとつ」のコミュニティというわけではないと思う。
私が違和感を感じるのは色々な意思が集まってハイクを形成しているのに、勝手に「ひとつ」のという形で括ってしまうところなんだ。
そして勝手に作り上げた「ひとつ」のルールをさも全体のルールであるかのように運用されてしまうことに疑問を感じているんだよ。
これまでにも何度も書いてきているけど、ハイクのTOPが公共の場であるのは間違いないので、ユーザー同士の気遣いは必要だと思う。
が、それはあくまで各個人の尺度に任せられるものだと思う。誰かが強制するものではないと思うよ。
私は他のサービスを熟知しているわけではないので、「そうそうない」の基準が良く分からないけど、オフが活発なのって一部ではないの?
よく見かけるオフ系のキーワードで実際にオフに参加している人は、既に何度も同じメンバーで集まってる顔なじみさんって感じがするし。
新たに参加する人も幾らかいるみたいだけど、それにしても700人のうちのほんとにごくごく一部だと私は思うんだけど。
「オフが活発」という点もハイクを構成する一要素としては理解できるけど、だけどそれが「コミュニティ化」の主要素としては受け取れない。
最後にこの点について。
私はどうしても「チャット」というイメージでは捉えられないな。
「チャット」とは「会話」すなわち誰か他人と繋がることを想定している発言ってことでしょ?
確かにそういう体でPOSTする人もいるけどみんなじゃないし、仮にそういうものだとしたら、ネタ系のキーワードとかお絵かきはどこに行っちゃうのか?ってことになっちゃう。
あまり用途を限定して捉えないほうが良いと思うんだけどどうだろう?
と、ここまでトラックバックを貰った内容に対して私の捉え方をぶつけてみたわけだけど、やっぱり最終的には「人それぞれ」になるんだよね。
別にトラバをくれた人の捉え方はそれはそれで持っていて良いと思うし、たまたま私は疑問に思う点があったけど、納得して賛同する人もいるだろうし。
結局そういうことなんだよね。
だからほんとに思ったように好きな使い方をすればいいと思うんだ。いろんな使い方を混ぜちゃうのもありだと思うし。
ただ、先にも書いたように勝手に「ひとつ」に括っちゃって勝手な思い込みでそこに押し込めちゃうようなことさえしなければ。
ハイクってダイアリーとかブックマークに比べると狭い世界だけど、「文化圏」みたいな考え方が適用できるのかもしれないとふと思った。
そういえば前に「セグメント」について指摘されたことがあったし。
考えてみると興味深いような気がするけど、ケースを集めるのは意外に大変かも。
ありがとう、理解してもらえてうれしいよ。
外面の美しさでは隠しきれない内面の未熟さ醜悪さというものは、外面を脅かす日が必ず訪れる。
それをしっかり受け止めて、直せば尚良くなるというのに直す気がないんだよなぁ。
いい年した大人だったし、今までにも自分以外におかしいとおもって異論を唱えた人はいるだろうとおもうんだけどね。
天はニ物を与えずというが、ルックスが良くても中身がだめって人間だったわ。
あ、いきなり結論出ちゃった。
だって、やってる側の脳内にルールがあって、脳内ルールに反したから制裁を加えるんでしょ?
明文化されたルールでもなければ、ルールが事前に提示されることもない。
脳内ルールが偶然に多くの人と一致している場合、「常識的な人」と呼ばれます。
「常識的な人」のルールに反したことを理由に多少の制裁を加えたからといって、批判されることは稀です。
たとえば私には「理由もなく、他人を殴ってはいけない」という脳内ルールがあります。
ほとんどの人の脳内ルールに同じものがあるでしょうから、これは「常識」と呼ばれます。
少しくどいですが、続けます。ごめんね。
鈴木君(仮名だ)が田中君(これも仮名ね)を理由なく殴ったとします。
クラスの先生が鈴木君を呼び出し、ちょっとした制裁を与えました。
このとき、「制裁」の中身がよほど強度なものでない限り、 (縛って木の枝に逆さ吊りするとか)
私も批判しません。
批判する人が少ないからといって、クラスの先生の行為が私刑(リンチ)であることに変わりありません。
事前に示されない脳内ルールに違反したことを理由に、事前に示されない刑罰を科したのですから。
「理由もなく、他人を殴ってはいけない」程度の脳内ルールなら、ほとんどの人が共有しているので問題はありません。
誰もが共有しているなら、事前にルールが示されている場合との違いが小さいからです。
では問題はどこにあるのでしょう?
「重大なルール違反をした」と思って強い懲戒を加えたら、「やり過ぎだ」と批判されるからです。
人は誰もが「こだわり」を持っています。
「皆で同じように歌う」ことが大切だとこだわる先生もいれば、べつにそうでないと考える生徒もいます。
色気づく年代の生徒にとってヘアスタイルやファッションは至上の問題ですが、
あなたにも「こだわり」はありませんか?
他の人に理解されにくい「こだわり」を持っていませんか?
その「こだわり」を否定する行為をされたら、激怒しませんか?
あなたも私も先生も人の子です。
「こだわり」を壊されたときに激怒したからといって、責めるつもりはありません。
良くあることと思います。
では先生が激怒したらどうなるでしょう?
独裁者が激怒して暴走したら、目も当てられない惨劇が生じます。
理解できないような些末な逸脱に対して、過剰に重い懲戒を与えることがあります。
このとき、「体罰事件」として表面化します。
ここでいう「私刑(リンチ)」とは、事前に示されない脳内ルールがあり、これに反するとどんな罰を科せられるか分からないということです。
私刑で秩序が保たれることもあります。
しかしそれは、私刑(リンチ)であることの本質を変えることもなければ、
すなわち、小さなコミュニティにおいては簡便に使えるメリットがあります。
だから「学校」というコミュニティで活用されてきました。必ずしも「私刑=悪」ではないからです。
私刑にも利点があることを認めつつも、悪を生まないシステムがあるならそれを使えばいいのでは?
では「悪を生まない(生みにくい)システム」とは何でしょう?
ヤブから棒だけど、ガマンして読んでくれ。スマンね。
ハンムラビ法典を知っていますか?
「目には目を。歯には歯を」のスローガンを聞いたことがあると思います。
これはハンムラビ法典の「タリオの法」と呼ばれる条文です。
「目には目を。歯には歯を」は応報主義(やられたら、やり返す)と誤解されやすいのですが、
現代刑法学では、罪刑法定主義を表した近代刑法の芽吹きと考えられています。
タリオの法以前は、殴られたことへの報復に相手を殺すなど、感情的な「やり過ぎ」がまかり通っていたからです。
「やり過ぎはダメですよ」と基準を示したのが、タリオの法です。
「刑罰の上限を定めた」といえば、さらに分かりやすいでしょうか。
体罰に話を戻します。
校内で暴れる生徒がいたら、それを止めさせる必要について異論はないと思います。
問題はその方法で、「殴ってでも止めさせろ」とする体罰積極派と、
「説得して理解させるべきだ」とする体罰消極派に分かれるでしょう。
しかしどちらの考えの人も、「腕をつかんで動きを止める」くらいのことは認めるのでないでしょうか。
ですが、よく考えて下さい。
「腕をつかんで動きを止める」ことは、身柄拘束を意味します。
実際には、この程度のことは学校教育法11条に基づく懲戒権の行使として是認されるので問題ありませんが、
「暴れる」程度を徐々に変えてみるとどうでしょう?
ちょっと想像してみて下さい。
制圧のためにどこまでやっていいのか、判断の難しい事例が一つくらい思い浮かぶはずです。
腕をつかむことは認められても、縄で縛ることは認めにくいはずです。
その線引きは、どこ?
暴れる生徒の年令や体力・武術の心得などによって、許されるラインが変動しますが、
だからといって最初からすべて諦めて全部グレーゾーンその場で判断というのは、事前の準備が足りません。
ランドセルの中身は、前の日に用意すべきです。
文科省の方々は現場の教師より頭良いんだから、懲戒と有形力行使のガイドラインを示すくらいできるでしょう。
現場のバカに判断させるより、PTで業務を標準化すればいいじゃないですか。
人を教え導く「学校」が、古代バビロニア以前の原始的な司法制度だなんて、あまりに拙いじゃありませんか。
現場の先生方は、頭でっかちの役人と違って誰より現状をよく知っているのだから、
事前に、想定される問題行動とその対処を自分で考えておけばいいじゃありませんか。
その場で素早い判断をする力がなくても、勤勉さがあれば補えます。
長げーよ、という意見は認めないよ。これでも書きかけなんだから。
だけど、寝る。長い文章を読んでくれてありがとう。
みなさん、おやすみなさい。いい夜を。
追記
>読みやすくてわかりやすいけど、用語の使用法に違和感。体罰が私刑とすると、体罰以外の制裁である懲戒なども私刑になってしまうから。
ん?そう?それは申し訳なかった。
確かに、
この辺の言い方は見返してみると、気持ち悪い表現だったかもしらん・・・。もしそこに怒りを感じたなら謝るよ。正直すまんかった・・・。
実際にデメリットを感じている(らしい)人を目の前にして「そんなのデメリットなんか無いだろ」って態度は非建設的すぎるというか、まず否定から入らんでも、と思ってしまったせいかなあ。なんか職場の人間が恋人がいないことに気を使いすぎてウゼエ、みたいな話って割とよく聴くし。
それと、
別段そういうことは無いと思うよ。
増田が「そんなデメリットあんの?無いと思うんだが」って言ってたから、実際そういうこともあるよって話を挙げただけのつもりだし、モテ・非モテ論争持ち出すつもりは皆無なりよ。つか、そんなのデメリットじゃない!と思うのなら、そのことに異論を言ってくれるのは別に構わないよ。その意見に対して、こちらが同意するとは限らないけど、それは「異論を挟んじゃだめ」という態度とは違うと思う。増田は友達!恐くないよ!
それはさておき、こういうデメリットを聴いてみて、増田的にはご意見どう?やっぱそんなんデメリットなんて言えねえよボケーとか思っちゃうかしら・・・。
そうでしたらすいません。
最後の2行以外は異論はないんだよなー
契約だって、毎月更新って時点で、当然いつ切られてもおかしくないのわかってたはずだし、 それを「人として扱ってもらえない」とかふざけるなよ。おまえ というかね、俺も派遣のシステムはひどいと思ってるのよ。
全くだ。
今の日本で派遣で働いていたら景気後退時に働き口が簡単になくなるかもしれないことを分かってないほうが悪いし、分かっていつついざ自分が危なくなってから分かってないふりをするとか「社会が悪い」とか言うんじゃねぇよ。
でもそういうシステムが維持されるのは、契約しちゃうやつらがいるからなんだよ。 誰も契約しなければ、経営者だって条件よくするしかないのに、 頭悪いのか、一事が万事なのかいいように利用されるアホがいるせいで、 糞制度が維持される。
全くその通り。
賃下げ圧力が強まる雇用体系で働く派遣はいわゆる正社員にとって今は迷惑(長期的にも有害かもしれないし、仕方のないことかもしれない)。
結局、正社員のように責任を負わなくてもいい楽なシステムに甘えてたくせに、 そのシステムにしたがって首切られたら「ひどい」って・・・マジキチ
正社員だって大したことないだろ。
増田のまわりは違うかもしれないが、派遣でもおかしいくらいの責任が伴う業務をしている人がいるだろうし。
まぁ、さっさと正社員を解雇できるような社会に転換するとか、派遣をさらに大幅に縮小させるか(して古きよき昭和の時代を目指すとか)しなきゃ、いろんな文句を言う派遣とそいつの愚かさを指摘する増田は必要、というか居なくならない。
Word<一太郎はよく分かりません。Office2007大好きです。
今更2000とか2003に戻れません。
UNIX系のOSの普及って言われても、「系」が取れないのが気になる。
浄土真宗も曹洞宗もあの創価も全部仏教って片付けるくらい乱暴なんじゃないの?
前任者を引き継いで、今でも使ってるだけのシステムが大半な気がするけど、
いわずと知れたネットスラングである。
女性誌、特に女性向けファッション雑誌に多く見受けられるバズワード的なキャッチコピーを用いたマーケティング戦略にマインドコントロールされているかのような一部の人たち(主に女性)を揶揄するインターネットスラングである。
(略)
転じて、女性誌に限らずマスコミの恣意的な報道を鵜呑みに信じる者、メディア・リテラシーのない者、ひいては流行・快楽ばかりを追従し、一般常識や知識やモラルが欠如した若年女性を総称して指す風潮にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%84%EF%BC%88%E7%AC%91%EF%BC%89
噛み砕いて言うと、「おいおい。マスメディアの戦略がつくった流行にのせられて菓子をスイーツとかいってんじゃねえよ(笑)」
という揶揄から始まり、
「こういうマスメディアが作った流行にほいほい乗っちゃう女って言うのはやっぱ頭ゆるいな(笑)」という種類の揶揄に繋がるのである。
女性誌が考えそうなキャッチコピーを利用して「マスコミに踊らされる女性を馬鹿にする」ことなんですね。
これを初めて知ったとき、私は「言いえて妙だなw」「なるほどねw」とかなり感心したものです。
というのも、確かに日本の女性ファッション雑誌の競争は激化しており、
より訴求力を高めるために情報の新鮮さや、感性に訴えるようなキャッチコピーが必要とされているのでしょう。
でもそれは単に女性が情報リテラシーが低いということを指すものなのでしょうか?
逆に言えば、ターゲット層の女性が感性の鋭さをもっており、情報を感性で取捨選択できるという言うことを指すのではと思いました。
(もちろん、スイーツ(笑)に代表されるような、“踊らされている”女性も確かにいることは私も否定できません)
時に「論理的でない」ことを男性は嫌がりますが、女性同士は感性・ニュアンスで事足りる場合があります。
どちらが高度なコミュニケーションだとは、一概には言えないとおもいます。
というより、ジェンダーが絡むと問題がややこしくなるので、「男は」「女は」という不毛な議論はやめておきましょう。
「スイーツ」
私は個人的にこう思います。
「スイーツは単なる西洋菓子でもデザートでもない、スイーツなんだ!」
つまりですね、「なんだよ、スイーツって。別にお菓子とかデザートとかで良いじゃんか。なんでわざわざスイーツとか言うの?」
という方に異論を唱えたいというわけです。
女性風に言うと、
「じゃぁ、なんでスイーツって言っちゃいけないの? “お菓子”とスイーツって、違うじゃない?」 ってね。
メディアを読み解くことからはじめてみましょう。
朝日新聞社「AERA」で1990年代には初出している。しかし女性向けに書かれたものではなかった。
現在の「スイーツ」と同じような意味で全年齢層に向けて書かれたのが、
2002年6月23日 朝日新聞朝刊 『アジアンスイーツ(ランランランキング)』
このころ(2002??2003)を境に、スイーツを関する記事が増えてきた。
また、自由が丘にあるスイーツテーマパーク「スイートフォレスト」ができたのもこのころ。
そしてスイーツ(笑)論争のターゲットにされる、『CanCam』(小学館)
こちらが残念なことにデータベースの範囲外で調べることはできなかったのです・・・。
(初出情報をお待ちしております。)
甘いもの。菓子、特に洋菓子をいう。【1990年代後半から】一般に使われるようになった。
[補説] sweetの複数形。
とある。
な、なに!1990年代?!
筆者は87年生まれなので、小学生のころには既にスイーツは一般的だったようだ。
(本当に?)
では、ネットスラングとして使われたのはいつごろなのだろうか?
筆者は2ちゃんねるを利用しないので、過去ログを検証することはできないので、聡明なネットユーザーの方にお任せしたい。
(まとめサイトなど初出と思われるものは存在しているのでしょうか?)
一応「バカ女語のガイドライン」というスレ?が初出なんでしょうか。(そうすると2007年?!意外と新しい)
しかし、少なくとも5年前まではスイーツ論争などは起こりえなかったのではないかと考えますね。
10年前に「ちょwwwスイーツwwww」なんて考えられないことです。
(そもそもインターネットはそこまで普及していないでしょうね)
しかし、90年代から使われてきたはずの「スイーツ」が、なぜ「バカ女の代名詞」として使われてきたのでしょうか?
90年代以降といえば、
・インターネットの普及
が相まって、それまで問題にされてこなかったような女性の特質が揶揄されるようになったのでしょうか?
この辺はよくわかりません。
で、本題に入りましょう。
女性が「スイーツ」というとき、それは大まかに言うと「西洋菓子」の事を指す。しかし、厳密に言うと西洋菓子でもないんですね。
感覚が鋭いかれらは、属するコミュニティの間でより微妙なニュアンスで物事を伝えたがるのです。
既存の形容詞だけでは言い表せない、微妙なニュアンスを伝えたい欲求があるのです。
同性同士結束したコミュニティを作る傾向にある女性は、(私の周りでは派閥抗争とかしていました。)
こうした「微妙なニュアンス」を感じ取る能力に長けています。 浮気などに勘が鋭い女性もいますね。(これは関係ありませんが。)
つまり女性が「スイーツ」とあえて言う場合には、マスメディアの戦略をある程度考慮しても、
それを選択した時点でまるで異なったニュアンスを感覚的にかぎ分けて使っている可能性があるのです。
この可能性を鑑みて、知り合いの女性たちにインタビューしてみたら、
スイーツにかんしては、「高級製菓」の事を指す傾向がありました。
“高級”の間は人それぞれですが、
「不二家はスイーツにはいらない」「コンビニ菓子ははいらない」「パティシエが作ったもの」「スフレやマカロンなどフランスの系譜のもの」「和菓子も入る」
など個人の線引きはあるように思います。
つまり、彼女達にとって「スイーツ」≠「菓子」であり、感覚的には別物なんですね。
もっと広い範囲で聞いてみるとおもしろいかもしれませんね。増田のみなさんはどこで線引きしますか?
「そもそもその感覚こそ、マスメディアに作られたものなんだ!」という人もいるかもしれません。、
そのことを全否定するつもりはありません。多かれ少なかれ我々はメディアの影響を受けているものです。そうでしょう?
しかし彼女達にとっては「スイーツ」は「菓子」でも「デザート」でもないようだということを主張して、駄文を終わらせていただきます。
豆知識(蛇足)
お菓子、という言葉は漢字が示すように昔は果物のことでした。実はイギリス英語(w)の「デザート」にも同じような意味があります。
一部のブックマーカーが理解できない
このエントリに、何人かの人がはてブでコメントしていたが、確かにそう思う。
時代の流れと共に去り行く「死ねばいいのに」タグを見送る意味で、「死ねばいいタグ」について振り返っておきたい。
「死ねばいいのに」を語る上で、流れ的に上記のエントリは抑えておきたい。
「死ねばいいのに、という言葉は呪詛の言葉である」という意見があって、この意見に異論はないのだが、出所はやはり、ダウンタウンの浜田であろう。ここからタグに取り入れられていった可能性は高いと思われる。「死ねばいいのに」タグが記号化してしまった現在となってはギャグであったという過去には意味は無いが、どういう経緯でタグに使われるようになったかというきっかけとしての意味はやはりあるといわざるを得ない。そして、言葉としての流行を測る意味でもこの経緯は無視できない。
はてなブックマークはコミュニケーションではない|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ
http://diary.lylyco.com/2008/11/post_219.html
ブックマークはコミュニケーションではない。そこが簡易コミュニケーションの場に見えるのは、おそらくそう思い込まされているからだ。はてなブックマークが提供しているのは、いわば「リアクションの可視化」サービスである。コミュニケーションを騙るのはマーケティング的に有効だからにすぎない。それは多くのWebサービスに共通した戦略でもある。
(中略)
ブックマークコメントやタグも同じである。それらはただのリアクションにすぎない。コミュニケーションを意図したリアクションかどうかさえ分からない。ネガコメやネガタグはテレビに向かって呟く呪詛みたいなものである。
はてなブックマークをあまり知らない人の目には、はてなブックマークは掲示板のようなコミュニケーションの場に映るかもしれない。そして、そういう人が「死ねばいいのに」タグを見れば、なんてひどいコミュニティだろうとか、徒党を組んでるとか、そういうことを感じると思う。はてなブックマークを知れば、個人個人のちょっとした感想や、自由な意見や、時には呪詛をまとめただけのウェブページという事がわかるだろう。
はてなをあまり知らない人がそういう認識をもてないのは、はてなの責任もあるだろう。「ここは個人の感想を便宜上一つにまとめたページです。」とか「リアクション芸の練習ページです。」とか書いてあれば、目くじらを立てたりする人も少ないかもしれない。書く必要があるかどうか、それが正しい表現であるかは別として。
「死ねばいいのに」タグは、呪詛の一つの言葉として、2008年に一つのピークを迎えたと言っていいだろう。その呪詛の言葉を吐く事で気持ちが落ち着いた人がいたり、こんなタグつけやがってと新たな罵りあいコミュニケーションが始まったり、繰り返しはてブをDisるエントリがあげられたり、呪詛の言葉として「死ねばいいのに」タグの果たした役割は大きい。
ただ、次の総理候補がいない政局のように、「死ねばいいのに」タグのあとに続く呪詛の言葉のエースは不在である。
このエントリで多くの候補が上げあられたが、ポエムのように、こんなに多くの言葉を連ねられて初めてわかる。
「死ねばいいのに」のしっくり感が。
他のどんな言葉を連ねられても、どれもライバルとなりえない言葉ばかりだ。
ライバルを失ってしまったアニメやマンガの主人公の気持ちがわかる。
「死ねばいいのに」はすごいヤツだったのだ。
だが、もはや、残念な事に、「死ねばいいのに」は明らかに下火である。
私の観測範囲でも、はてブの主要メンバーの方の観測範囲でも、その火は消えつつある。
私自身、「死ねばいいのに」という言葉を誰かに使った事は無い。
恐らくこの後もタグや誰かに向ける言葉として使う事は無いだろう。
どれだけはてブを知っても、リアクションだけの場とは思わない。そこに何らかのコミュニケーションはあると思うから、自分の呪詛の場にはしたくないからだ。増田もそうだ。
だけど、全ての人にそれを求めるつもりは無い。呪詛を吐く場であってもいいと思う。
私に取っては、呪詛から始まったコミュニケーションもあるのだ。
記号化した「死ねばいいのに」に「なんだとコラ!?」と突っかかって始まったコミュニケーションもあったと思う。
その頃はそんな余裕は無かったが、今は下火になっていく「死ねばいいのに」に少しだけ、寂しさを感じる。
最後に一度だけ、あえて言おう。
さらばです。