はてなダイアリーキーワード: スムーズとは
標題は竹中氏が定期的に公表しているポリシーウォッチ(http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080818/plc0808180311001-n1.htm)のタイトルだが、今回の議論は承服できない。
まず竹中氏は、政策の基本的な方向という点について、中国と同じく我が国も大きなリスクに直面していると述べる。経済の弱さは08年第2四半期のGDP統計にも現われているとおりである。近年のGDP統計の弱さについては、対前期比で見ても対前年同期比で見ても景気の弱さが現われているという点はその通りだろう。
続けて、竹中氏は1990年当時の日本経済は、政策の大きな方向を誤ったがゆえに「失われた10年」を経験したと述べる。氏曰く、「当時は二つの誤った政策、つまり一つは好況投資など政府による財政支出を拡大するという偏ったマクロ政策であり、もう一つは97年の消費税引き上げをきっかけに財政再建に走ったこと」とのことである。そして、現在は「日本経済運営の大きな誤りをもたらした「ばらまき派」と「増税派」が要職を占めていることが政策の基本的方向を誤るというリスクをもたらしている」とのことである。このような言葉を耳にすると、小泉政権時にも歳出削減を柱とした財政再建策が構造改革の一環として採用されていたが、この点はどのように考えればよいのかという疑問が浮かぶ。
さて、竹中氏の論説の中で、最もいただけない箇所は次の記述である。
危惧(きぐ)される具体的事例が、目の前で起こりつつある。原油価格高騰などに対する救済措置だ。原油価格の高騰で、漁業関係者らに大きな影響が出ているのは事実である。しかし経済政策として重要な点は、今回のように輸入価格が上昇し「交易条件」が悪化している下では、国民の生活水準低下は避けられないという事実である。厳しいが、これが資源輸入国の現実なのだ。政治の指導者は国民に、「我慢しよう。歯を食いしばって、これをしのごう」とまず訴えなければならない。にもかかわらず現状は、国民に対し痛みに耐えることを訴える政治勢力は皆無である。与党も野党もばらまき型の政策を求め、一部メディアもこれをあおっている。
まず「我慢しよう。歯を食いしばってこれをしのごう」という発想は、小泉政権の下で「構造改革なくして成長なし」と唱えた際の「今我慢すれば(構造改革の結果)きっと良くなる」という考え方と同根であることに留意すべきだ。
「交易条件」が悪化している下では、国民の生活水準低下は避けられないという事実はその通りだが、問題はこの「交易条件」の悪化は甘受せざるをえない痛みなのかという点である。竹中氏は「米国経済が回復すれば日本の景気は良くなる」と論じる与謝野氏を批判しているが、今般の原油価格高騰を避けることが出来ない問題であると捉えている点においては与謝野氏と同じ穴の狢であり、竹中氏も同様に批判されるべきである。
そして、「歯を食いしばってこれをしのごうと言うべきだ」という発想は、「政府が自ら無為無策であることを主張せよ」といっているに等しい。そしてこれは「原油価格上昇という供給ショックは黙って甘受すべきであり、その環境条件で淘汰される企業があれば致し方ない、相対価格の自律的調整が進むまでショックを耐え忍ぶことが必要で、構造改革を徹底的に進めるのが必要である」という我が国において根強く生き残っている清算主義という魔物を体現したものに他ならないのだ。言うまでもなく、清算主義が不況脱却において「無理筋」の考え方であることは大恐慌における教訓や、我が国の長期停滞の経験から実証済みである。
90年代以降の長期停滞期の経験に鑑みれば、バラマキ政策は景気の下支え以上の効果を持ち得なかったことは明らかだろう。そして景気悪化局面での増税は、更なる奈落の底へと日本経済をいざなうことも明らかだろう。さらに、現状に対してひたすら耐えることを国民に要求することも誤りなのである。
では、どうしたらよいのだろうか。基本的な経済学が教えるところによれば、輸入価格上昇による交易条件の悪化、つまり購買力の低下に対しては、購買力を向上させる政策を採ればよいのである。購買力を向上させる政策とは言うまでも無く金融緩和策である。
金融緩和により市中に流通するマネーサプライの量を増加させることが出来れば、人々はそれを貨幣として溜め込むのではなく何かしらの形で消費しようとするだろう。失業率が十分に高い水準にあるのならば、実質賃金の低下を通じて失業率は低下し、家計の平均的な購買力は増加する。さらに失業率が十分低い水準(3%前後)に到達すれば、金融緩和は雇用者の賃金自体の上昇をもたらすことで家計の購買力はさらに増加する。購買力の増加は、基本的には相対価格に影響を与えないと考えられる。しかし価格高騰が進む原材料は、我が国の家計にとって必需財でありかつ非競争輸入財としての性格を有している。家計にとって一定量の支出が必要であるということが価格上昇による購買力の低下を現在実感させている一因であるが、所得上昇が明確になればこれまで支出が出来なかった奢侈品・娯楽品への支出が進むだろう。このような効果は原材料に対する他財の相対価格を低める圧力をもたらすことになる。
原材料価格高騰のショックがなぜ問題なのかといえば、原材料価格が他財と比較して急激に上昇することで、他財の原材料価格に対する相対価格(原材料価格/他財価格)が高まるためである。では、このショックを緩和するにはどうしたらよいのだろうか。
一つには技術革新といった手段で原材料価格自体を引き下げることである。これは原材料に対する他財の相対価格が高騰した現状を緩和させることを意味している。しかし、原材料価格自体を引き下げていくのは短期的には容易ではなく、竹中氏が言うように「我慢しよう。歯を食いしばってこれをしのごう。」と国民にこれまで以上の負担を要請することになってしまう。そしてこのような政策が効果をもたらすのは技術革新が伴う以上長い時間がかかり、そしてこの政策を推し進めるのは原材料価格以外の財の価格ベースではマイルドなデフレにある我が国経済にとっては得策ではない。
原材料価格高騰のインパクト(つまり原材料の他財に対する相対価格の高騰)を押さえるもう一つの方法は、他財の価格を押し上げることである。原材料価格ではなく他財の価格を押し上げることは、原材料価格自体を抑制するという方法と同様に、原材料価格の他財に対する相対価格の上昇を抑えることに繋がる。そしてこの、他財の価格を押し上げることは、GDPデフレーター、CPIコアコアといった国内財価格がデフレに陥っている我が国の内需を掘り起こすことに寄与し、失われた購買力を回復させることに繋がるのだ。
このような原材料価格と他財との間の相対価格の調整は、産業構造の調整を伴うという意味である程度の時間が必要かもしれない。しかしながら、金融緩和策を進めることは、相対価格一定の元で購買力を上昇させ、原材料価格高騰の影響を和らげる。ノーベル経済学賞受賞者でもあるアカロフ教授は、マイルドなインフレの効用として相対価格の調整がより進み易くなる点を指摘しているが、現在の我が国においてCPIコアコア、GDPデフレータで見た物価指数がマイルドなデフレを示しているのであれば、そのような状況からの脱却を目指す金融緩和策は相対価格の調整がスムーズに為されるのを後押しするのではないかと思うのである。
竹中氏の議論は、「失われた十年」で得た教訓を全く踏まえていないという点でご自身が批判しているバラマキ政策や財政再建派と同じではないだろうか。そして論説を読んで、竹中氏の「構造改革」を支える思想が国民に痛みを強いるものでしかないということにも改めて失望した次第である。これではリフレ政策をいくら取り入れたところで結局の所掛け声だけで終わってしまったのは当たり前だ。繰返しになるが、GDPデフレーターやCPIコアコアといった指標でマイルドなデフレが続いている我が国において原材料価格高騰による購買力の低下を抑制するための政策手段を採ることはたやすい。金融緩和を行えばさらにCPIは上昇しインフレが進むのではと懸念する向きもあるかもしれないがそれは杞憂である。欧米諸国のCPIの伸びはヘッドラインで4%??5%だが、我が国は前年同月比で2%の伸びである。そして欧米のCPIコア(我が国のコアコアに相当する)は2%程度だが、我が国のCPIコアコアの伸びは0.1%に過ぎない。さらにGDPデフレーターがマイナスである国は何処にもないのだ。
政府として今何を議論すべきだろうか。当然ながら、同じ狢同士で批判しあうことではないのは明白である。金融政策は政府からの独立性が付与された日銀によって為されているという点は留保すべきだが、以上の論点を考慮に入れれば、政府の検討課題として金融緩和を行うための具体的政策手段としてどのようなものがあり得るのかという点も少しは議論の俎上に乗せても良いのではないだろうか。90年代の誤りがなぜ生じたのか、それは、経済政策における金融政策の有効性を過度に軽視するという大きな誤りを見過ごしたためである。だからこそ90年代の誤りは起きたのである。交易条件の悪化という事実の前で、自ら国民に対して痛みを求めるという無為無策をつまびらかにすることこそ愚の骨頂である。勇気を持って経済問題に対して果敢に戦った先人が居たことを忘れるべきではなく、そして我が国のリーダーは勇気を持って果断に金融緩和の実行を論じ、そのための具体的政策を実現していくために何をすべきかという点も考慮に入れても良いのではないだろうか。金融政策の決定に対して異論があれば、政策決定会合における議決延期請求権の行使や、極論かもしれないが、例えば政府紙幣の発行、国債発行による日銀の引受けといった策もある。現状空席となっている副総裁・審議委員の席を埋めることや、政府による政策目的の独立性を発揮する重要な機会でもある総裁・副総裁・審議委員の任命がスムーズに行くように制度整備を進めることも重要だ。
先程、「金融政策は政府からの独立性が付与された日銀によって為されている」と指摘したが、日銀が与えられている独立性は政策手段の独立性であり、政策目的の独立性ではないことに注意すべきである。政策目的は政府と認識を一にすることが望ましく、正しい政策目的は正しい現状認識と正しい将来の見通しから育まれるものである。昨日の金融政策決定会合においても日銀は経済見通しを下方修正しつつ現状維持を決定したが、これまでデフレ脱却が進まなかった大きな理由は、日銀が判断の根拠である経済見通しを常に楽観的に捉え、その結果として性急な金融引締め(量的緩和解除→利上げ)を行ったことではなかっただろうか。02年以降の景気回復期におけるメインエンジンは外需だと言われるところであり、昨今景況悪化のリスク要因として取りざたされているのは原材料価格の高騰やサブプライムローン問題といった海外経済の景況悪化であるが、我が国の景況悪化要因として国内政策の要因も影響している可能性も排除できず、寧ろ現在の状況は外需の低迷が鮮明になったことで元々隠されていた内需の弱さが顕在化したとも捉えることが出来るのではないだろうか。
景気対策として効果を持ちうる規模の財政政策を行うのであれば、名目成長率が低下している現状では政策目的であるプライマリバランスの黒字化を放棄せざるを得ないだろう。景気対策と財政再建のジレンマに直面すれば結局のところ最低限の政策しか行うことが出来ず支出した金は無駄金になる懸念すらあり、景気後退が顕在化している中で増税を行うのは論外だろう。以上を踏まえれば、竹中氏のバラマキ政策・財政再建派への指摘は正しいだろう。但しデフレ脱却を主要政策課題の一つとして掲げ、そのための政策努力を日銀に対して在任中求めてきた竹中氏だからこそ、景気後退色が濃厚になった現状において「歯を食いしばってこれをしのごう」という更なる痛みを強いるような議論を聞きたくはないと感じるのは自分だけだろうか。論説のタイトル通り、今回の選択が「大きな誤り」の始まりにならないことを祈念するばかりである。
(※)沢山のブクマが付いていて驚きますが(汗、文章を修正しました。ご容赦を。
オレは絶対に察しない。
意思を持って。
おまえの気持ちを読むことはない。
そんなものはわかるはずがないからだ。
もしもオレになにかわかってほしいなら
説明責任はお前の側にある。
オレは理解しようと努力はするが、
説明されていないことまでは理解しない。
できるはずがない。
そんなことができると考えるお前は他人に対して過剰な要求をしている。
オレとお前の間には深く暗い川があるんだ。
日常生活をスムーズに過ごすために、普段はないふりをしているが、それは厳然と存在している。
もしも過剰な理解をオレに求めたら俺はお前を軽蔑する。
俺たちは全員まったく異なる人間であり、
コミュニケーションが不可能性の上に成り立っていることを忘れるな。
イベントに適合しない会場を借りたことが事故を招いた、って論旨なんだから
自分たちに合う場所がないなら「作れ」とか言ってるんだぞw
芸に走りすぎてうまく伝わらなかったか。
趣旨は
「なぜオタク叩きばかりが先行するのか。確かにイベント自体には問題があるが、エスカレータが原因であるのは明らかで、そこから目を背けさせるような言動についてはそれを間違いであるとしか言いようがない。
しかしエスカレータのみに問題がありイベントには問題が無いという主張にも賛同できない。他のイベントで発生せず、この場でこの事故が発露したのは何らかの原因があり、その点も究明する必要がある。そしてあらゆる対策を練るべきだ。
結局他人のままではいられないのだから、問題意識を持つべきだ。」
というところだ。
うむ。http://anond.hatelabo.jp/20080807171207を芸を省いて書き直してみるか。
なぜかオタク叩きや、一時的なものなのだから、まずは反省してやりすごせよというような結論を多く見かけるが、これについては異論があります。
はじめにポジションを申し上げておくと、私は別にイベント自体についてはそれほど思い入れがない。今回の事件があり、興味があって初めてイベントの概要を詳しく調べたが、模型系の特定の趣味を持った人々の一大イベントであるということはわかったりました。
しかし、こういった場合は即売会という性質上、人が多く集まることは目に見えています。イベントの規模と比較して、会場が小さくなりぎて、ぎりぎり、余裕を持たずに行っているという印象を受けたます。
事故を発生させるに至った当事者は、失敗から学び二度とこんな事が起こらないようにすべきで、そのために一番確実な対策はイベントを止めることだが、それすら視野に入れるべき問題であると考えています。
だが、しかし、今回の事件で一番問題であるのは、加重に耐えられなかったエスカレータであるのは間違いありません。なのに人間は理解できないものを嫌うという性質があるとはいえ、オタク叩きの方ばかりに目を向けず、根本的な原因を探るべきだと思います。
たとえば、同等製品が名古屋でも事故を起こしているが、このときもエスカレータを走って上ることが原因の一つにあげられました。だが結局はあのときは、多くの論調は「走ることは日常的に行われているのに、それを考慮しなかった強度設計が問題である」という結論であったように記憶しています。すくなくとも、利用者を強烈に批判するようなものは見たことがありません。
そのため、エスカレータを走って上ることはしないで、という啓蒙はおこなわれましたが、今回故障したエスカレータを含め同型機種には対策が施されたわけです。
今回の事件はエスカレータメーカが一番、この問題が重大であるかと言うことは一番よくわかっているだろうと思います。だから処置はする。しかしその措置は社会的な圧力があるかどうかによって全然違うのではないでしょうか。言ってしまえば、似たような会社はたくさんあると思います。ただ社会的な圧力上がるかないか、社内的処置として行うのと、公的に経過を公開して処置を行うのとでは全く話が違うでしょう。公的に経過を公開すれば、そのノウハウが伝わり、各社がその知識を利用することで同種の事故を防ぐ事ができるかも知れない。こういった観点からすれば、こういう方向に行くのが一番よいのではないかと考えます。
こういったことが、一部のオタクを嫌う感情から、重大な問題の存在を隠匿するようであっては、社会的に大きな損害でしょう。
ただ、そういったところでエスカレータだけが原因か、といえば、他にもあることは指摘せざるをえません。
言ってしまえば、参加型のイベントで人が多く集まるという形でやるには、規模が大きくなりすぎているのではないでしょうか。また、会場の選定を間違っていないでしょうか。
<これについては補足をする。つまり、ビックサイトは大規模なホールのほとんどが広い入り口と通路でつながっているが、その中でなぜ限られた通路しかない場所を使用したのか、ということについて、疑問があると思っている。全ホール貸し切りというわけではないのだろ?>
また、エスカレータに欠陥があり、そこが根本的な原因でいつか事故が起きるかも知れない状況であったとはいえ、なぜこのイベントで起きたか、ということについては、もしかしたら運かもしれませんが、それにしたって原因はあるはずです。その原因分析は相応に行われるべきだと思います。その結果としては、施設の制限を事細かに事前に把握して的sてうな誘導プランを策定する、といったことや、はてまた運が悪かった(確率論的に避けようがなかった)という結論であるなら、オカルトに頼ってみるという方法だってかまいません。
私が知る限り、この種のイベントは毎回問題を抱えているように見えますが、運営方法について改善の余地があるのではないでしょうか。愛好家の集まり、アマチュアであるから一定以上の金が出せない、というような事を理由に参加費の値上げや各種サービスの有料化等に反対している論をインターネットなどで読みます。また、改善案等を提案する人がいても、コストを理由にそれを押さえ込む動きもよくみます。
しかし、それでいいのでしょうか? スムーズに運営するために相応のコストは当然なのではないでしょうか?その結果、今回の事故がこのイベントで起きてしまったのだとすれば、それはもう成立しないのだから、中止するという抑止方法も選択すべきです。
運営する会場の規模がイベントに比べて小さいのならば、さらに大規模な会場を探すことも選択肢です。またイベントの種類に適した適切な会場に移り、無ければテントなどを用いた仮設営などでも会場を作ることも考えるべきです。それらが無理ならば、少なくとも会場に似合っただけの規模に抑えるべきです。少なくとも、特定の時間帯や開始直後に集中させずに、抑制し分散する対策は必要だと思うのですが、現状十分にとっているのでしょうか?
それらのエスカレータの事故がこのイベントで起こってしまった事実は厳粛に受け止めるべきだと思うのですが。
考え方としては、オタク系イベントの中でも随一の知名度と規模を誇る割に、開催基盤がワンフェスに比べて脆弱なコミックマーケットで発生しなくてよかった、ともいえるのではないでしょうか。海洋堂ならばチョコエッグを始め一般的な知名度もわりとありますし、ワンフェスのみで収入を得ているわけでなく、柱となる事業があります。原因究明についてはきちんとした結果とノウハウを公表してくれるでしょう。
いえることは今回たまたまエスカレータの部分に問題がでましたが、今回これが大丈夫でも、同じ体制では他のところに問題が発生したかも知れません。そういった考え方をしても、イベントの規模が問題であって、参加者に問題がある、とは考えられないでしょう。
イベントに問題があるのは、その参加者の問題もありますが、原則的にはイベントの運営方法に問題があると考えます。そこで参加者についてたたいたりもdないにしたところで、またその参加者がすべての責任をおたっと頃で、原因究明は遅れるばかりで何の利もありません。
最後に、このトラックバックツリーの大元の増田の話を引用します。
事故が起きないようにする防衛策と起きたあとの対応策の両面に問題があるはずなのに極々狭い視野で決め付けや陰謀論に走ったりしてるからもう見てらんない。
ビックサイトはオタク系イベント以外でも利用します。エスカレータもビックサイトにあるのがすべてではありません。誰も人ごとでいられないでしょう。
クソつまらん文章だな。クソだこんなもん。
元増田ー。
全然関係ないけど。前の冬コミにはじめていって、コミケスタッフの対応の素晴らしさに感動した。あれだけの規模のイベントをあれだけスムーズにボランティアが運営しているのは本当に凄いことだと思う。いろいろ文句をいわれることもあるけど、あれだけのイベントをほぼ問題なく運営できるスキルだけでも凄いよ。北京オリンピックもコミケスタッフに任せたほうが上手く運営できるんじゃないかと思う…って、それは冗談だけども。
ま、コミケが今も正常に開催できて、順調に運営できているのは優秀なスタッフさんの御陰だから、感謝しようぜ!といってみたかった。
以上、余談でした。
やり始めればスムーズに仕事をこなすけれど、やろうとしても乗り気じゃない。とりあえず仕事しなくちゃいけないから、簡単にできる仕事からなんとなく始めてしまう。そして、気が重い仕事はどんどん先に伸びていく・・・。
こうならないために、仕事を行うための儀式を決めよう。たとえば、『この椅子に座ったらあの仕事を行う』『このFirefoxは息抜き専用で、IEはあの仕事専用』。こんな風に儀式として行うと、行動の決断が簡単になり、いつの間にかあの仕事をやっていた、となることが理想。(気が重い)あの仕事を処理しようと決断して始めるモチベーションはコストがかかるけれど、始めるための儀式を行うモチベーションはほとんどコストがかからない。
まず、仕事が完了するまでに行うすべての行動をリスト化する。このリスト化の作業は、作業全体の1割程度費やしても問題ないはずだ。それほどリスト化には効果が高い。次にリストができたら行動を行う時間を決める。午前中にはこれとこれ、と大まかに入れよう。みっちり入れないこと。仕事は何があるかわからないし、普通に仕事したら時間が半分余るような余裕を入れておく。そして余った時間に、時間が決められていない緊急性の低い作業を埋めていく。
リスト化が終わったら、作業を開始する。終わった作業については終わった時間を記入し、線を引く。これが仕事に変化を与えることになり、目に見える変化になる。この変化がマンネリを防ぐ。
リスト化を進めていけば、単純にやっていれば飽きそうなことでもモチベーションを高めて効率的に作業ができるはずだ。重い仕事というのは複雑だったり、量が多すぎたりするけれどそれを意識させないためにリスト化する。1つ1つの作業に分けて考えてみればなんてことはない作業。
フローのように仕事して、不安をなくして黙々とこなしていく。そうすれば重い仕事は気にならなくなる。予定を立てて、不必要なことを考えなくてもいいようにしよう。
うまくいきそうにない場合は、思い切って休憩しよう。
うまくいかないといってダラダラやっていてもはかどらない。こんな時には気合を入れて気分を変える。仕事と休憩を入れ替えるために、いつまで仕事の時間か、いつまで休憩の時間か記録しよう。切り替えがはっきりするし、休憩を取った記録を1日の終わりに眺めてみると今日1日効率的に仕事をこなしたか見えるはず。
そして集中しているなと感じたり、仕事が進んだと感じた時はしるしをつけよう。しるしが多くなってくると、仕事をうまくこなしたとわかり、自信になる。いつもの2割以上の成果が出たときにはしるしをつけている。
ほかにも、眠いときは眠くなったと書こう。乗り気がしない場合は乗り気がしないと書こう。1日の終わりに見返して非効率なことが書いていなかった場合、1日が効率的にやり遂げたとわかる。もし非効率なことがあれば明日はうまく進めようとやる気になる。
作業リストを作るのは、1つ1つの作業を気軽に、簡単に行うため。
予定を立てるのは、余計なことを考えなくするため。
休憩をするのは、余計なことや必要ないことを考えるため。
どんな場合でもいいんだけど、新書の内容を、書き下すときが非常に煩わしい。
ハードカバーなら開いたままになってくれるので、見ながら両手を使ってキーボードに向える。
ただ新書になると、がっつり折り目をつけないといけない。
この問題いろいろ報道されてますが、コネで入った先生たちを首にするという
すごいところまでいこうとしている。
そのかわりに
本来合格すべきであった人が新たに先生になって教壇に立つメリットって
いったいなんなんだ?
うすっぺらい正義だけか?
授業を受ける子供やそれを見守る親にいきなり「復活」の新任先生がいるより、
コネでもこれまでやってきた先生にみてもらったほうが安心するはずだ。
そういうことを考えると、
先生になった人に重い制裁を課して、
学校を混乱に陥れる必要があるのか非常に疑問が残る。
それから一般企業では、コネなんて当たり前という議論もあったけれど、
公務員とそれとはその前提は違う。
お金の受け渡しなんてもってのほか。
しかし、全体の8割は成績順、
その残りをいわゆるコネの人、としていたという話は
言うほど実害があるようには思えない。
より素質のある人かどうかを1点や2点の差で判断するのは難しいはず。
それが、大学入試のような「学ぶチャンス」を得るためではなく、
仕事として責任をもって、信頼をもてるかどうかを求める試験では
なおのこと、その1点2点の差は大きくはないはず。
それならば、その組織の中で信任の厚い人が認めている人材であれば、
たとえ1,2点分の能力が仮に劣っていたとしても
組織の中でのコミュニケーションはスムーズになるという意味では
その人のほうが採るべき適切な人ではないのか?
それから、大分ならば地方だから、下手に、都会から大分なんてどうでもいい先生がくるよりかは、
Uターンや地元大学出身の学生を採りたいということもあるだろう。
だからこの事件から教訓とすべきことは
県採用の思惑(地元出身者を優遇したいとか)と制度がきちんとマッチしていないということではないんだろうか?
そもそも制度化されていれば問題なかった話であって
そんな裏でこそこそやらないできちんと推薦制度や地元枠なんて作って最初から採用すればいいのだ。
だから下手に先生たちの首を切るより
そのへんからもう一度考え直して試験のシステムをつくってほしいもんだ。
あ、他の地方もねw
http://anond.hatelabo.jp/20080716014058 のブックマークにある
喋り好きと非コミュが並立しうるんだろうか。
というコメントに対して反射的に思ったことを書きます。
私は喋り好きです。そして多分非コミュと呼ばれてもおかしくないタイプです。ですので、「ソースは俺」話で恐縮ですが、私としては並立し得るのではないかと思っています。
ただ、元増田の話から察するに、この場では「喋る」という言葉は「会話をする」という意味として使われているようです。そうだとすると、私を実例として挙げて「並立し得る」なんてとてもじゃありませんが言えません。
つまり、私が「前後の関係を無視して言葉を字面通りに捉える」というミスリードをして、その結果、「喋り好きと非コミュは並立し得るよ!」「しうるよ!」というシャウトが私の脳内に響き渡った、ということを書きたくて書きました。
以下はそのミスリードを維持したまま脳内でちらついた具体混じり話です。人によっては本文とも蛇足とも捉えられると思いますが、私はそのどちらかであると定義する気は特にありません。
大きくなってから知ったのですが、私は喋ることが大好きです。しかし、その好き成分を悉く潰してしまうほど会話が下手で、そして苦手です。何故大きくなってから知ったかと言うと、独り言に対してずっと持っていた恥ずかしさや嫌悪感が、独り言の実践とともに薄れたためです。
きっかけはネットラジオでした。はじめは「自分の音声がリアルタイムで隔たったどこかに届く」ということにボトルメールのようなロマンを感じて手を出しました。しかし、そのうちどこかに届くことはかなりどうでも良くなって、ネットラジオという建前の下にひたすら音声を発するということに惹かれるようになりました。お茶を飲み飲み十時間くらい楽しく喋り続けるなんてこともしょっちゅうありました。リスナーさん用のメッセージボードもお義理で用意していましたが、リスナーさんが期待する反応というのをほぼ全く考えずに喋るため、時が経つにつれて殆ど使われることはなくなりました。
そのうち声を向ける相手がマイクでも壁でもあまり変わりはないということに気付き、無意識ではない独り言も発するようになりました。ちなみに無意識の独り言は昔から発しています。ウェブ日記のようにその時々に自分が思っていたことを、建前上であれ誰かにアクセスされる可能性のある形で記録するのは面白いことだという意識があるので、ネットラジオやそれに準ずる録音自体は今もある程度続けています。ただ、外部から干渉される可能性が「ほぼゼロ」から「ゼロ」になるという壁のメリットはとても魅力的なので、時間の占有率は壁の方が高くなっていっています。
約四年の間にそういう環境や意識の変化を経験し、私は「喋る」ということ自体は好きなんだなあと認識するようになりました。その一方で「会話」への苦手意識はますます強くなりました。人と話す時にとちったりどもったり、相手の話の内容を聞き返したり聞き間違えたりする頻度も増しました。幸運にも無理に人と話さなければいけない環境にはいないので、自分から人(というかスムーズな会話ができないと不快感を露にする人)と接点を持たないようにすることで現状は安寧を維持しています。今のところそこで問題は生じていませんし、問題を感じてもいません。問題を感じたらまた意識改革があると思うので、その時その時で対処していけばいいやと楽観的に考えています。
そんな感じで現在は殆ど家族の人としか話をしていません。それにつれて、音声を介する話だけでなく、介さない話も減りました。ネットで文章による対話が何日かに一回の割合で成立したりもしますが、殆どはここのように話題そのものを主軸とした一期一会のような対話です。会話になると成立する頻度はぐっと落ちますが、音声の会話より成立し易い感じがします。どちらにせよ人と交わりたくてそこに参加した訳ではなく、むしろそれはリスクとして捉えつつ参加したり参加するのを断念したりしています。
そういう生活をしているので、友達もネット友達もいません。知り合いはそこそこいますが、積極的に会話なり何なりを持ちかけることはまずありません。持ちかけられるのも自称変わり者さんからのみです。こんな自分に関わっていただけるのは大変ありがたいと思いながら反応を返しますが、持ちかけられて嬉しいとはあまり思えません。
自分を非コミュであると称したことはまだ無いのですが、誰かから(主になじる意味合いで)非コミュと称されてもおかしくない人格だとは思っています。自称しないのは、口下手な私がこんなホットな言葉を口にしたら、うまく扱えなくて「私ってば今流行りの非コミュなんだよ、かっこいいでしょ!」というような誤読をされるのではないかと恐れているからです。人と交わりたがらない性格を恥じる気持ちはあまりありませんが、胸を張って主張する気もありません。しかし、読む側が分かり易いつっこみ用のキャラクターに飢えている時は、まず口下手な人をそういうキャラクターに仕立て上げる傾向があるので、そして私はそんなピエロ役に仕立て上げるための悪意ある誤読を快く受容できるほど心が広くはないので、そのきっかけになる可能性のある非コミュと言う表現は避けるようにしています。
ただ、今延々と述べた内容も、「自分ではフツーだと思ってるんですけどー、人からはよくちょっと変わってる子だねって言われますー」というようなありがちかつ下手くそな自分アピール手法と捉えられて、本来抱かれなくて済むマイナスイメージをむやみに付加している可能性もあるので、場合によってはあえてすっぱり「非コミュである」と言い切った方が良いのかもしれません。迷ったのでこうして思いのたけを併記することにしました。
長々と書きましたが、要するに私は一方的に喋るだけ喋って、そのくせそれに見合った分の人の話を聞きたがらないタイプなのです。口の上手い人、エンターテイメント性を意識している人なら「喋りたがり - 聞きたがり」のような関係を結ぶことも可能かもしれませんが、そんなことを要求されるくらいなら私は無口な人のふりをして過ごします。そういう人は容認されるかどうかはともかくとして、あちこちに存在していると思います。「並立」が容認レベルなら並立は難しいと思いますが、存在するだけでいいなら並立はし得りまくってると思います。
オチは考えてみましたがこれといって適切なものが思いつかなかったのでそのまま終わります。
何となく、経験を書くことにする。
僕は21歳まで誰とも付き合ったことなかったし、特にそういう気持ちもなかった。
自分が努力して、もててやろうとも思ったことないし、けれど普通にそれなりに楽しく生きていた。
女の子と付き合うなんてことは、もう無いものだと思っていたし、そんなもんだという認識だった。
そもそも女の子と話すことが苦手で、(赤面恐怖症的な症状だった)高校時代も大学時代も殆ど異性との交流はなかった。
兎に角、僕自身への僕の評価は、そんな感じだった。
加えて、僕はとても友達を作ることが苦手だった。大学に通っていたが、入学式のとき隣に座った奴が友達作る上手い奴じゃなかったら、きっと孤独に1時間半の道のりを通っていただろうし、大変な学生生活を送っていたに違いない。
そんな中、僕はブログをやるようになった。
目の前に相手の顔が見えないと言うアドバンテージは、相当あったと思う。
極端な恥ずかしがり屋だった僕は、ネットという世界では上手く立ち回れた(ように思っているだけかも知れないが)。
そんな中、僕はある人に出会った。
彼女は短大に通っており、実家に帰る前に一度僕に会いたいということだった。
僕も彼女に興味があり(その興味というものが、好きという感情やいわゆる恋愛という感情だったかは解らない)、会うことになった。(ネットというものの危険性や、相手が女性で上手く話せないだろうという事は不思議と考えなかった。)
その彼女に会うという行為は、僕の中で大きな変化を生んだ。
年下だったという事もあったかも知れないけれど、思っていた程緊張をせずコミュニケーションを取れたのだ。
高校時代、女性と話した回数がトータルで50回もなかっただろう僕が、女性に苦手意識を持っていた僕が、何故かスムーズに出来たのだ。それは僕の中が変化している(若しくは出来たくせにやってなかったこと)事を意味していた。
そんな中、僕はもう一人の女性と会うことになった。
メールでコミュニケーションをするようになり、メッセンジャに切り替わった頃、僕に会いたいと彼女は言ってきた。
新宿で会い、その日僕は彼女とキスをした。初めてのキスだった。
一般的ではないだろうが、会ってその日にセックスをした。勿論初。上手くいかなかったけれど。
次の日、僕等は付き合う事になった。
最初に会った彼女と、付き合う事になった彼女。その間2ヶ月位の出来事で、僕の中で一番劇的な時間だった。
苦手だと思っていたコミュニケーション。友達もろくに作ることが出来ない奴が、苦手意識を持っていた女の子と話すことをある程度克服し、そのうえ彼女まで作ってしまったのだ。
僕自身、信じられなかった。もう一生無いことだと思っていたことが、現に目の前にある。
そして手を繋ぐことが、これだけ素晴らしいことだったのか。好きといって貰えることが、こんなに良いことだったなんて・・・。
付き合うとか、恋愛だとかそういうものは、相手を認証することだ。友達と違って、もっと深い部分で。
相手に騙されているだとか、そういう心配をしないで(そういう所がが恋は盲目というゆえんだろうと思う)相手に心を許すことの心地よさは、麻薬のようだ。
遠距離で、今はもう別れてしまった彼女に僕はとても感謝している。
僕の行ったことが恋愛だったかは不明だけれど、恋愛というものが悪いものではないことを知ることが出来たから。
誰かから自分を承認して貰える体験は、何よりも素晴らしいことだと思う。
その究極的なものが、恋愛だと僕は思っている。
僕は巡り合わせが良かった。恐らく一つでも間違えていたら、今も何もなかったと思う。ネットで最初コミュニケーションできてなかったら、何もなかっただろうし。
落ちも何もないけれど、これが僕の経験。
以上、読んでくれて有り難う。
大学4年生にして初めてセックスをした。相手は去年の12月から付き合ってる3才下の彼女。ちなみに彼女も初体験。
セックスに関してはyourfilehostとか「ふたりエッチ」でしか知識が無かったけど、なんとか正常位?で挿入もできた。中では出すなって言われたから、彼女のお腹に射精した。
普段オナニーでしか見たことの無い白濁粘液が彼女の体に張り付いているのは確かに新鮮だった。
以下、俺が童貞を捨てた記録として、いろいろとメモをしておこうと思う。
前戯はその場の雰囲気でスムーズに行えた。服を脱がせて乳繰りあって、肌をまさぐって。
普段ほとんど運動する機会の無い俺としては、腰を動かすのが本当にキツかった。まじで痛めるかと思った。
イク瞬間にピストン運動が異常に速くなるのも身をもって感じられたし、キツかった。
相手の膣はキツかった。俺のちんちんの大きさのせいなのか、相手のサイズの大きさなのかは分からなかったけど、とにかくギュウギュウにねじり込んだ感覚。
彼女も初めてだったので、慣れてなかったのもあるかもしれない。あと出血は思ったよりはなかった。
以上。
セックスでしか味わえない快感なんてのも感じられなかったし、長い時間をかけて体力を消耗した割には気持ちよさもほとんど無かった。ただただ後に残っただるさのほうが大きかった。
トータルで言うと、セックスしたことに対して……いや、特定の異性と付き合うこと自体に対して後悔した。彼女ができ、セックスしたところで人生が変わるわけでもない。ましてや22歳の時点でやっと童貞を捨てたところでどんな優越感に浸れるというのか。
あれが世間一般で言われる「恋愛」の本当の姿なのだとしたら、はっきり言って恋愛なんてしたくない。いくら愛し合ったところで所詮2人は他人だし、ましてや俺のような、1人でいる時間がいちばん気楽だと感じるタイプの人間にとって、恋愛にメリットなんて無い。時間と金を使って服装に気を使い、コミュニケーションスキルを磨く目的の最終地点がセックスであり、結婚だとするなら、そんな努力は確実に割に合わない。そんなことをする暇があるなら他のことをやるっての。
……俺はオナニーが好きだ。2分もあればちゃちゃっと片付けてしまえるし、後処理も簡単だ。汚れたティッシュをゴミ箱へ放り投げるだけ。「痛かった?」なんて気を使うことも必要ない。そして何より金がかからない。少なくとも俺の場合はバカ高いDVDなんか買わなくてもyourfilehostで解決。なんて負担の少ない性欲処理の方法だろうか。
そんなオナニーを約8年近く愛好した結果、俺はセックスのよさが完全にわからなくなったようだ。
だいたい女性の最もグロテスクな部位に自分の大事な息子を平気で預けられる男もどうかしてるし、自分の最も大切な部分にあの醜くてむごたらしい肉の塊を突っ込ませ、白濁液を平気で放出させる女も、完全に「動物」だ。どんなに高収入でルックスが良くても、全裸になって自分の精器を相手の精器にこすり合わせている奴はみんな「猿」だ。
どんなに知的レベルが高くても、人間だって所詮「動物」なんだ、ということを痛感した。
俺はまたセックスするんだろうか? まぁするかもしれないけど……でも、自分から積極的にちんちんを相手のグロテスクな膣にぶち込みたくはないな。
http://anond.hatelabo.jp/20070530155801
以下、追記。
※1日経過
体がだるい。っていうか筋肉痛が取れない。大好きなオナニーをする気も起きない。作業に集中できない。
あんまり気にしないようにしようかなぁ。
そして何より、どんどん増えていくブクマ数に恐怖感すら覚えた。確かに昨日これを書いてたときに「うわーこりゃもしかしたら袋叩きに逢うかな」とは思ったけど、ガチなコメントをしてくれる奴がここまで多いとは思わなかった。それと同時に「うわーこれはもしかして自分が思っている以上に恥さらしなんだなぁ」とも思った。1回こっきりのセックスで恋愛語っちゃったりするとかありえないだろ普通。
というわけで、こんな最低の奴に対して、今日も愛のこもったメールをしてくれる連れに改めて感謝と同時に、自分が思った以上に痛い心理状態にあったことも再認識。あと、ガチでコメントしてくれた奴があまりに多いし、とりあえず自分と相手が満足できるようになるまで試行錯誤してみよう思った。もちろんいろんなことをきちんと調べて。
以下、覚えたこと・・「セックス語るなら100回くらいしないとだめ」「ふたりエッチは侮る無かれ」「外出しでもゴムつけないと避妊にならない」。
これに気づけたんだし、まぁ恥さらしだけどここに書いたこと自体は無駄ではなかったんだなぁ。
うん、こんなだめな奴の文章なんか読ませてごめんね。そして言及してくれたひと、ありがとうね。
後日談↓
確かにひどい記事らしい。それに怒ったり批判したりするのもうなづける。
しかも毎日がつぶれるまでやると書いている人も多いみたいだ。
だけど毎日を潰そうと頑張ってる人たちは何が起きるかまで考えてるんだろうか?
結論から言うと毎日はつぶれない。理由は二つある。
一つ目だが、行政は大型倒産はもなんとしても回避するから。大企業がつぶれるとき、本社の数千人が失業するだけでなく配下にある全国の新聞販売店まで連鎖的に倒産してしまうから、これは社会問題となる。
二つ目は、大手マスコミがつぶれるというのはまずいと考える人たちが社会の各分野でたくさんいる。数え上げるときりがないけど、潰さないようにさせる力をもった人たちだ。
でも、もともと毎日は経営状態はかなり悪い。わかりやすい例として図書館で他紙と見比べてほしい。記事は読まなくていい、分厚さを見比べてほしい。毎日はダントツの薄さだ。日経なんかは一面広告を載せる数合わせのために記事を量産しているほどだが、毎日はスポーツ新聞に毛が生えた程度の量でしかない。これだけでも毎日の危機がわかるはず。
では、これ以上経営状態が悪化した場合、何が起きるだろう?
経営陣は交代するかもしれない。これは望ましいことだ。だが、もう一つ不可避のシナリオがある。
それは創価学会が資金援助をして、毎日が実質創価の傘下に入ってしまうことだ。
自力再建が無理なとき、現在既存のメディアも新興メディアも毎日を吸収できるだけの余力はない。外資は可能性があるが、これも以前のマードックのときのような摩擦があってすんなりいかない。
衰退気味のメディアである新聞のしかも経営の悪い会社に対して持続的に協力でき、しかも毎日に充分すぎる魅力を感じるのは創価学会だろう。
今でも創価との関係が強いのだから、実質傘下におさめるときはスムーズに進行できる。しかも、創価を止める力をもったグループは存在しない。
ネットを見てる人は騒いでいるが、今回の件はおじさんやおばさんのような一般人はほとんど知らない。
つまり創価が実質傘下に収めたとしても市井の一般人が気づくことはない。気づかないうちに論調は変わり、見えないタブーが紙面を覆う。
これからのスクープは赤旗のみになるんだろうか?赤旗のスクープは読んでて面白いけれど、世間への影響力が皆無に等しい。
批判は間違えていないけれど、結果として創価のメディアが一つ増えるだけだ。潰せ潰せと安易にがんばってしまうともっとひどいことが待っている。
関係ないけど、入社試験は案外面白いので貼っておく:http://www.mainichi.co.jp/saiyou/examination/index.html
本日、麻雀を打った。自分はさほど麻雀が得意というわけではない。早読み表を持てば点計算ができる、という程度である。
周囲の麻雀仲間は強いので、自分がいつも負けていた。牌の切り方に問題があるんだろう、河から当たり牌を見抜けないのが原因だろうと考えていたが、今日才能とか運というものが自分には決定的に足りない、と分かった。
自分が打たないで他の人の手を見ている最中気がついた。配牌からして全く違う。大体の場合で順子や刻子が一つはあるようだったし、その周辺の牌もある程度固まって持っていたりする。配牌時で自分とは有効牌の数が二個は違う。そしてツモればしっかり有効牌。
なんだ、こんなにスムーズに手が進むんだったら麻雀楽しいよ。そりゃみんな強いわけだよ。
結局半荘3回やって自分があがったのは中のみ、リーチのみの2回。成績は終局時3000点くらいが一回、あとの二回はハコった。
引き継ぎというのは、どこの会社でもあるものです。
別に引継ぎ自体は、そりゃやりますよ。といった感じです。
誰かに引き継ぐことも、誰かから引き継ぐことも別にかまいません。
だがしかし、自分の業務を引き継いでもらう人が年上なのが問題なのです。
だって気を使うもん。
気を使ってもさ、
>教え方が雑
>大雑把過ぎる
>わかりにくい
>はやい
>覚えられない
>できない・やりたくない
>無茶言わないでくれ
同じことは何回も言わせないでください。
先日、同じことを言いました。
このマニュアルに書いてあります。
ちゃんと読んでください。そんなに難しくありません。
もっと努力しろ。
過保護に教えないと文句垂らして、周りに言いふらして、非難の矛先を変えてくる。
子供かよ。ふざけるな。
表向きでは笑っているけれども、内心はズタズタです。
さらに、誰かから引き継ぐって言っても、毎週毎週予定が変わるし。
>君が大変そうだから。
>君がたくさん兼任しているから大変そうだから。
>君が忙しすぎるように見えるから。
なにそれ?
それで予定かえるの?そっちの方が大変だよ。
ほかの人が今まで立てた予定が水の泡。
大変なのはわかりきったこと。
結局自分たちの問題を他人に擦り付けたいだけなのかよ。そう感じるさ。
>作業中だから呼ばなかった。
そうですか。
会議中の半分程度は作業してませんでした。
呼んでください。
どうせ呼びたくなかったんでしょ。
だって自分たちで決めたいから。自分たちのやりやすいように。
そんな井戸端会議で2??3時間つぶすんだったら、そこを引き継ぎに当ててくれよ。
そうすれば、もっとスムーズにいくよ。
無駄話を一時間するんだったら、必要なことを教えさせてくれよ。
そうすれば、もっと早く引継ぎができるよ。
>この予定で大丈夫?
>こんな感じでいこうと思うけど
はぁ、まぁ何でもいいですよ。
てか、べつに大変とか思っていないっすよ。
別にココとかやろうと思えばできますよ。
てなこと言うと、いやな顔するし。
あぁ、しまったな。適当に従えばよかったかも、とか思ってしまう。
>やれる人がやる、ってことでやろうか。
もう好きにして。
誰が責任を持って引継ぎするのさ。
"やれる人"っていうのは、"だれもやらない"もしくは"ぎりぎりまでやらない"ってことじゃん。
もうさ、自分でいろいろ決めたい気持ちはわかるよ。自分が楽になるからね。
他人の決めたことについては、否定ばかり。
話を聞いてるだけで正直つかれる。だって井戸端会議じゃ、何も進まないよ。
何でもいいから前に進もうぜ。
それだけだよ。
ガソリン暫定税率でギャーギャーやってるけど、例え、復活したとしても、そう遠くない将来に電気自動車に時代になったり、ハイブリッドの割合が増えていったり、低燃費の車がどんどん増えてくるんだから、ジリ貧じゃね?
ガソリンを買う人、買う量が減れば、税収も減っちゃうんだぜ?
今のうちになんか方策を考えて、ここはいったん暫定税率廃止にした方が美味しいんじゃね?
っつーか、今、考える話じゃねーよなあ。もう数年前、それ以上前から解ってるんだし、自動車の世界の進化もその当時からわかってるんだから、未来を見据えて戦略を練っていればスムーズにコトを進められたはずだ。
案外、道路族っていうか、権力者っていうか、うらでコソコソと税金吸ってる連中って、知恵が回らないのかなあ。
一般市民やマスコミに注目される前に目立たないように法律変えるコトくらい簡単だろうに。財務省にケチをつけられなくて美味しい財源なのに、なんでこんなに杜撰なんだろうか。
こんなことくらい、誰でも思いつくのになんで出来ないの?
http://anond.hatelabo.jp/20080320073242
もう一人の人も書いてるけど、セックスってのはコミュニケーションだと思う。そして、どんな種類のコミュニケーション能力も、受信能力と発信能力で1セットだってことを知ると、それは気持ちいいセックスへの近道になる思う。元増田の話には、この受信能力の話が抜けてる気がする。性器のサイズや形に相性があるとか、男の持続力とかってのは、セックスするうえで、ひとつの課題だけど、それ以上のものじゃないよ。それは、コミュニケーション上の課題であって、コミュニケーションで乗り越えるものなんだ。
性器の形や持続力を気にする前に、お互いに相手がどうされると気持ちが良いのか、実際に聞いたり、相手の反応を試したりして、自分たちだけのセックスのコミュニケーション方法を探るほうが大事だと思う。肌への触れかた、キスの仕方、性感帯の愛撫の仕方、挿入の仕方、体位、一回のセックスの中での序破急や緩急のつけ方etc、そういうのは、おもに発信力の問題じゃないかと思うかもしれないけど、ちがう。受信力が鍵なんだ。そういうセックスのノウハウは、すべて、相手の気持ちを言葉や反応から理解して、相手がどうすれば気持ち良いのかを、お互いに試した末に、徐々に改良されてくもんだからね。AV男優のテクなんて、そのためのヒントにしかならない。
たとえば、はじめてだったら、脱がしたり、おっぱいを優しく触ったりしながら「○○は、どんなことされるのが好きなの?」とか聞いてみたらいいし、とりあえず、女の子の性感帯になりそうなところは、全部丁寧に愛撫してあげてもいい。そうして何度かセックスするうちに、その女の子のどこが性感帯なのか、どのくらいの強さでどんな角度からいじると気持ちいいのか分かってくる。女の子も恥ずかしがらず、「あ、それ気持ち良い」とか「ちょっと強すぎる」とか言った方がいい。マッサージみたいなもんだと思えばいい。「あ、そこそこ、もうちょい左」みたいな。そうやっていくうちに、お互いのアレとソレがどんな体位でどんな角度なら気持ち良いのかとか、今日は何分くらい持ちそうだから、どんな展開のセックスにしようかっていう問題にも答えが出せるようになる。
あとはね。セックスはセックスそのものをしてる時間だけがセックスじゃないと俺は思うよ。自分の好きな人といつも気持ちいいセックスをするには、セックスっていう行為以外の時間のほうが大事なくらいだと思う。たとえば、セックスの予感があるデートをするなら、どこで待ち合わせするのか、今日はどんなルートを巡って、どこで昼ご飯を食べ、どこで遊んで、どこで休憩して、どこで夕飯食べて、最後にホテルに行くのか、事前に彼女が喜んでくれると思うプランを考えたり、実際にデートする間に、様子を見てアドリブを利かせたりする。そうやって、二人とも笑ったり、感動したり、美味しい飯を食べたりして、気分よくいられれば、デートの〆のセックスも、盛り上がった気分で突入できる。気持ち良いセックスになる可能性は高い。その日のデートを通して、冗談も本気も、お互いになんでも話せる関係がつくれれば、セックスのときのコミュニケーションもスムーズだ。
こうやって、コミュニケーションを深めて、お互いにシンクロするような、最高にうまくいったセックスはやばい。頭の中がまっ白になるっていうのは比喩じゃない。明らかに脳から、なにかとんでもなく気持ち良い物質がドクドク出てて、終わった後も二人とも全身が恍惚感で満たされた状態になる。こういうセックスは、体調とか気分とか、その他の色んなものが関係して、いつもできるわけじゃないんだけど、ちゃんとお互いの気持ちを受信しあって、セックスを重ねてると、数回に一回くらいは経験するようになる。
人間同士のコミュニケーションにおける共感能力の重要性を吹聴する輩は多いけれど、
たしかに社会的に求められる場面で情報共有ができない欠陥があることは認める一方で、
感情の共有が本当にできると信じている人間にも、明らかになにかが欠落しているように感じられる。
たとえば、「Aはおかしい!許せない!」とわめくBさんの発言力が強いとき、
彼らは「BさんはAさんのせいでどうやら憤り苦しんでいるらしい」「BさんにとってはAさんは敵だ」とすばやく認識し、
「それはないよねー」「それはひどいねー」「Aは前からそうだったよ」と次々と同調する。
複数の人間同士が感情を共有できるということ自体、
彼らは、実際に共感によって場がおさまるという経験を疑うことができないのだ。
それどころか、共感というのは人間社会をスムーズに動かす便利な仕組みとしか思っていないらしい。
いくつもの戦争を加速させていったということを知らない。
彼らは場の流れを読む能力は高いのだろう。
だが、場の空気だけを見ていては、大局を見失う。