(上一オ1)
田中義廉 著
(上一オ4)
大凡書を読み、或は正く文章を綴り、事を記すことを、知らんと欲せば、能く
文法を学ぶ可し。夫れ 文法
は、語音を正し、文章を綴る法を、教ふる学なり。
今茲に、文法を分ちて三編とす。○第一字学○第二詞学○第三文章学なり。
字学
は、文字の子母韻。字音。仮名用格。音便等を教ふる学なり。○
詞学
は、詞の品種。性質。変化。活動。用法等を教ふる学なり。○
文章学
は、作文の体裁。文字の配合等を、教ふる学なり。此三種の各に附て、漸次
に説示ずべし。
(上1ウ6)
夫れ字学を学んには、先づ仮名の読方と、子母韻の活用を諳記せんには、次に
掲けたる、
五十音の図
を、経にも、緯にも、能く読みうかべて、諳ずべきなり。
経
とは、アイウエオ、カキクケコ、等の行を云ふ。
緯
とは、アカサタナハマヤラワ、イキシチニヒミイリヰ、等の通りを云ふなり
。
五十音の図 | 此体の文字を、 片仮名 と云ふ、 |
同 | 此体の文字を、 平仮名 と云ふ、 |
アイウエオ | |||
緯緯緯緯緯 | |||
ア経 | アイウエオ | あいう江お | |
カ経 | カキクケコ | かきくけこ | |
サ経 | サシスセソ | さしすせそ | |
タ経 | タチツテト | たちつてと | |
ナ経 | ナニヌネノ | なにぬねの | |
ハ経 | ハヒフヘホ | はひふへほ | |
マ経 | マミムメモ | まみむめも | |
ヤ経 | ヤイユエヨ | や以ゆえよ | |
ラ経 | ラリルレロ | らりるれろ | |
ワ経 | ワヰ于ヱヲ | わゐ宇ゑを |
注 ヤ行イはイを倒置させた形(@イで示す)、ヤ行エは、第一画をノにした
もの(イとエの合字、@エで示す)
此五十音のうち、アイウエオの五音を
母韻
と云ひ。其他の四十五字を
子韻
と云ふ。母韻は、音の本にして、何れの音も、長く引きて呼べば、必ず此五
母韻に、帰するものなり。仮令ばア緯の音を、長く引きて呼べば、皆アの音に帰
し。イ緯の音は、イの音に帰するを以て知るべし。」子韻は、各自分の音あれど
も、其音を長く引くときは、悉く母韻に帰せざるは無し。此故に、アイウエオの
五字を、母韻といひ。其他の四十五字を、子韻といふなり。
五十音の外に、二十字の
濁音
と、六字の
半濁音
あり。
濁音の図
ガギグゲゴ | がぎぐげご |
ザジズゼゾ | ざじずぜぞ |
ダヂヅデド | だぢづでど |
バビブベボ | ばびぶべぼ |
此音は、清音の右肩に、〔゛〕点を附く、此点を、
濁音の符
といふ。
半濁音の図
パピプペポツ゜ | ぱぴぷぺぽつ゜ |
此中パピプペポは、唇にて弾き呼ぶ音なり。仮令は、早旱魃(カンパツ)のパ
天火(テンピ)のピ 南風(ナンプウ)のプ 一遍(イッペン)のペ 日本(
ニッポン)のポ の如し。
叉ツは、語を詰めて呼ぶとき、或は力を込めて言ふとき、口の中にありて、外
に出でざる音なり。仮令ば、真平(マツ゜ピラ) 専(モツ゜パラ) などのツ
゜の如し。此音は、皆字の右肩に、一小円を記す。
此外猶ンの音あり、これはムより転ぜるものにして半舌半鼻の音なり。よりて
ニの音を、鼻へ抜きて呼ぶものに近し。
右七十七音にて、一切の詞の用をなし、我国の音は、此外にあることなし。但
古へは、イ@イエ@エウ于の用ゐ方に、各差別あれとも、当時は、何れも同音と
なりたれば、今@イ@エ于を略き、只イエウのみを用ゐて、七十四音とす。
叉ヤイユエヨの五音を、他の音と合せて、急に呼ぶことあり、これを
拗音
といふ。拗音とは、五十音の如く単一の音にあらず、二音の重りたるものを
云ふなり。此音にも、叉右肩に一小円を記し、其符号とす。仮令ば、 チヤ゜
フイ゜ ミユ゜ フエ゜ チヨ゜ 等の如し。
此拗音は、絶えて本邦の古音に、あることなし、
但漢字音と、外国より伝来せる詞にあるのみ。
(上四ウ9)
詞を唱ふるに、長呼の音と、畳音とあり、夫れ
長呼
は、字音を長く引きて、呼ぶ音にしてこれは、〔ー〕符を徴す。仮令ば、ア
ー、カー、サー、ター、ナー、等の如し。此符は、只音を長く引くの微なり。
畳音
は、同音を重ね呼ぶものにして、これは、〔ヽ〕点を徴す。仮令ば、アヽ、
カヽ、サヽ、タヽ、ナヽ、の如し。此点は、梵字長呼の点に取れり。○叉平仮名
書には、〔(くの字点)〕符を記す、仮令ば、かず(かず)、さき(ざき)、の
如し。此徴は梵文の影像より出たり。○漢字の畳音には、〔々〕字を加へて何々
と書す、これ仝字の省文にして、何〃と書するは、其草体なり。
其他省文、叉は合字を用ゐて、符号になすものあり。即∨、┐、寸、(|キ)
、(|モ)、なり、此中∨は、シテの合字を省略したる形なり、┐は、コトの合
字、寸は、時の省文、(|キ)は、トキの合字、(|モ)は、トモの合字なり。
(上五ウ5)
凡そ、古へは、詞の音も正く、仮名の用ゐ方も、能く定まりて、苟も乱るるこ
と無かりしを、後世に至りて詞の音も正しからざれば、従て仮名の用ゐ方も、大
に乱れたり。今詞の音を正くし、これを記すに、誤なからんことを務むるを、
仮名用格
と云ふなり。仮名用格を弁へざれば、むげに、物言ふこと、能はざるが如し、
故に今誤り易きものを掲げて其区別を示す。抑仮名の、誤り易れものは。
ワ、ハ ウ、フ イ、ヰ、ヒ エ、ヱ、ヘ オ、ヲ、ホ ヂ、ジ
ヅ、ズ
なり、此外に、誤るべき仮名なし。
さて此区別を、容易に知らんと欲せば、先づ詞の上にあるワイウエオの音は、
皆本音にして、ハヒフヘホの、通音にあらず。〔
本音
は、文字の本然の音を云ふ。通音は、音便に従て、他の音に、通ひたる音を云
ふ。猶第五章を見るべし。〕又詞の中と、下にあるは、大概ワイウエオに通ひた
る、ハヒフヘホの仮名なりと知るべし。〔茲に、詞の上、中、下と云ふは、詞の
うちの頭字、中間の字、終末の字を云ふなり。仮令ば、〔覆〕オホフと云ふとき
、オの字は、詞の上にて、フの字は、詞の下なり、又ホの字は、詞の中なるが如
し。〕されは、詞の上に用うる仮名は、イヰエヱオヲワウの八字なり。其中ワと
、ウは、ハと、フを除けば、外に混るることなし。この故にイヰエヱオヲの、区
別の大概を、心得るには、先づ詞の上にあるは、イエオの仮名にして、詞の下に
あるは、ヰヱヲの仮名と知るべし。此中オは、詞の下にあること、絶えて無し。
稀にはヰヱヲを、詞の上に用る、又イエを、詞の下に用うることあれども、至て
少し。○叉ジヂズヅの中、ジズは至て少なく、大概は、ヂヅなりと知るべし。然
れども音便にて、濁るものに於ては、其清音を求めば、決して混るることなし。
〔猶日本文典外編、字音の巻を、添へ見るべし。〕
(上七オ5)
二個以上の文字、或は詞の重りたるとき、口調の好きに従て、本音の外、猶他
の音に、通ふことあり、これを
音便
と云ふ、音便の中、母韻に帰するものと、同経の他音に通ふものあり、これを
一に
通音
と云ふ。或は訛りて、半濁音となるものあり。今其例を逐一次に載す。
されば、詞の上にありては、音便の例なく、皆詞の中と、下にあるとき、口調
の好みに従て、他の音は、変するものと知るべし。
さて、詞の中と、下にありて、口調の好きに従て、他の音に通ふ仮名は、ハヒ
フヘホ、及びクシキ、マミムなり。
ハには、二個の通音あり、第一ワに近き音なり、これは、ワと、アの中間の音
なり。即 粟アハ アワ 岩イハ イワ 沢サハ サワ 終オハリ オワリ等の
ハの如し。これ殆とワに同じ。第二、ウに通ふ音なり、即 伯耆ハハキ ハフキ
箒ハハキ ハフキ 河骨カハホ ネ カウホネ 吹革フキガハ フイガウ等の
ハの如し。
茲に、文字の右の下に記したるは、本然の仮名にして、左の下に記したるは、
詞に唱ふる音に従ひたる仮名なり。故に右の仮名の音は、左の仮名の音に、通ふ
ものとしるべし。以下皆これに倣へ。
ヒに、二音の通音あり、第一イに通ふ音なり。即 貝カヒ カイ 灰ハヒ ハ
イ 鯛タヒ タイ 鯉コヒ コイ 間アヒダ アイダ 等の如し。第二、ウに
通ふ音なり、即 商人アキビト アキウト 狩人カリビト カリウド 弟ヲト
ヒト ヲトウト等の如し。
フに三個の通音あり、第一、ウに通ふおんなり、即 云イフ イウ 吸スフ
スウ 夕ユフ ユウ 閏ウルフ ウルウ等の如し。第二、オに通ふ音なり、即
今日ケフ ケオ 倒タフル タオル 仰アフグ アオ グ 扇アフギ アオギ等
の如し。此フは、一旦ホに通ひて、ホより、又オに通ひたるものなり。第三、ム
に通ふ音なり、即 侍士サフラヒ サムラヒ 葬ホウフル ホウムル 訪 トフ
ラウ トムラウ 蒙カウフル カウムル等の如し。
ヘに、二個の通音あり、第一、エに通ふ音なり、即 上ウヘ ウエ 前マヘ
マ エ 苗ナヘ ナエ 帰カヘル カエル 家イヘ イエ等の如し。第二、ウ
に通ふ音なり、即 卿マヘチギミ マウチギミ 仕奉ツカヘマツル ツカ エマ
ツル等の如し。
ホの音には、オに通ふ音あり、即 顔カホ カオ 猶ナホ ナオ 塩シホ シ
オ 氷コホリ コオリ等の如し。
クシキは、音便に従て、其母韻なる、ウイに、通ふものなり、即 斯カク カ
ウ @ヨク ヨウ 冊子サクシ サウシ ○益マシテ マイテ ○赤アカキ
アカイ 黒クロキ クロイ 朔日ツキタチ ツイタチ 幸サキハヒ サイハヒ
衝立ツキ タテ ツイタテ 等の如し。
マミムの三音は、屡々ウに、変することあり、即 給タマヘ タウベ ○上野
カミ ツケ カウヅケ 小路コミチ コウヂ 手水テミヅ テウヅ 髪掻カミカ
キ カ ウガイ 畳紙タタミガミ タタウガミ 頭カミベ カウベ ○日向ヒム
カ ヒウ ガ 等の如し。
此外、口調に従ひ、訛りて、ンとなる音多し、仮令ば、ミムメニリハヒノウの
音なり、即 朝臣アソミ アソン 公等キミタチ キンダチ 簪カミザシ カン
ザシ 弓手ユミテ ユンデ 読ヨミテ ヨンデ 清スミテ スンデ ○汝ナム
ヂ ナン ヂ 誉田ホムダ ホンダ ○懇ネモゴロ ネンゴロ ○何ナニゾ ナ
ンゾ 如何 イカニ イカン ○仮名カリナ カンナ 退出マカリデ マカンデ
殿シリガリ シンガリ 件クダリ クダン ○童部ワラハベ ワランベ ○及
オヨビテ オヨ ンデ 並ナラビテ ナランデ 慮オモヒハカル オモンバカル
○殆ホトホト ホトンド ○@オウナ オンナ 等の如し。
此等は通音にあらず、訛りて、他の音に変り、其本音を、失へるものなり。
又ウフチリヒの五音を、訛りて、半濁音の、ツ゜となることあり、即 夫オウ
ト オツト ○貴タフトシ タツトシ 新田ニウタ ニツタ ○以モチテ モ
ツテ 立タチテ タツテ ○欲ホリ ホツス 則ノリトル ノツトル 反カヘ
リテ カ ヘツテ 至イタリテ イタツテ ○向ムカヒテ ムカツテ 言イヒテ
イツテ
等の如し。
此等も、亦訛りて、他の音に遷り、其本音を失へるものなり。
ンの音を他の音に呼ぶことあり、即 銭セン ゼニ 縁エンシ エニシ ○蝉
セン セミ 燈心トウシン トウシミ 汗@カザン カザミ ○近衛コンヱ コ
ノヱ 等の如し。
当令取用せる詞は、甚だ種々にして、純粋なる国語あり、国語に、古言あり、
令言あり、
古言
は古より伝りたる詞なり。
令言
は、中古以下に生じたる詞なり。又漢字音と、国語を雑へ用うるものあり、
これを湯桶読ユタウヨミと云ふ。湯桶の文字、一字は訓にして、一字は音なる故
なり。中古以下、かかるものも亦多し。或は直に、漢字音を用うるものあり。仮
令ば、菊キク 雁ガン 拝ハイス などの如し。又漢字音を訓となすものあり。
仮令ば、銭をゼニ、蝉をセミ、土地をツチ、木@をムクゲ、海鰻をハモと云ふが
如し。或は、蕃語の伝はりたるものあり。仮令ば、@@[水のこと]カナリヤ[
小鳥の名]紅、ヘチマ[@@]マントル[筒袖の羽織]などの如し。此等は、皆
其由来を論せず、@は一般皇国語となして、収むるものなり。