昭和の初めの頃と言えば、暮らしてゆくのが大変な時代だったのでしょう。関東大震災とか世界恐慌があった時期でもあります。この話の主人公の家はある橋のそばにあって、いろいろな人が通りかかったそうです。中には子育てに行き詰まって、「しばらく預かってくれ」と子供を置いてゆく人もいました。それでも彼の親たちは特に抵抗もなく預かっていたといいます。しばらくすると親達が迎えにきてくれたからです。
主人公がまだ小さい頃、ある春の日に一人の女の子が橋のそばに棄てられていました。主人公の親はその子を見つけ、いつものように預かります。そのうち親が引き取りにくるだろうと思っていたからです。ところが、ついに引き取りにくることが無かったそうです。したがって、その子の本当の親は分からないままです。
女の子は春子と名付けられ、そのうちの子供、つまり主人公の妹として育てられることになりました。兄妹はとても仲が良く、特に妹の方は兄のことを「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と呼んで慕っていました。
春子は自分が捨て子であることも、兄とは血がつながっていないことも知らされずに大きくなります。兄の方は本当の事情を知っていました。日が経ち春子は成長して女学生になります。戦争が始まり兄は兵隊に取られ別れて暮らすことになりました。
春子が兄のことを好きでたまらず悩んでいることを知った親は、兄が戦死して二度と会えなくなることが無いとは言えないと考えたのか、春子に本当のことを話しました。ふつうなら自分が捨て子であることを知ればショックを隠せないはずですが、それより兄と血がつながっていないことを知り嬉しくてたまらない気持ちの方が強かったようです。それまで好きになってはいけないと思っていた兄をふつうに好きになっても良いということになりました。
その頃、主人公の兄は長崎に赴任していました。本当のことを知らされた春子は「どうしてもお兄ちゃんに話しておきたいことがある」と言って、長崎まで一人で会いに行くことを決意します。
ところが二人はそれ以来会うことがありませんでした。この話を兄が知ったのは戦争が終わった後です。兄は春子を探して、その足取りをたどることになりました。長崎へ向けて、大阪、広島と汽車に乗りながら、広島で宿を取ったことを確信することになります。
戦後の広島は原爆が投下された後で、男女の区別もつかず、身元も分からない黒こげの死体があちこちに転がっていたそうです。その日の朝、長崎へ向けて春子が乗ったであろう電車の中もやはり黒こげになっていました。”おそらく、春子はこの電車のなかで閃光を浴び、一瞬の間に命を失ったに違いない。”
後に映画監督になった兄は、復興を遂げた後の広島を訪れ、かつて走っていたものと同じ型の電車を貸し切り、春子の葬式を行ったそうです。兄の名は浦山桐朗(うらやま・きりろう)。『キューポラのある街』、『夢千代日記』等を監督した人ですが、もう亡くなっています。
もしかしたら浦山桐朗さんは春子を描こうとして映画監督になり、当時新人であった吉永小百合に演技指導をしたのかも知れません。
-2002/5/22
■参考文献
NHKラジオ/浦山桐朗インタビュー
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