生まれた家は海のそばにあり、縁側に立つと西側の海から木々の間をくぐり抜けて潮風がやってきた。その家も風も今は無い。そのときの風を思い出させる蕎麦屋が今住む街から遠くない場所にある。
昼食時の時間が少しばかり過ぎたこの夏のある日、木立に囲まれた蕎麦屋に向かった。コンクリートの路地を過ぎると先は石段で、進むにつれて坂が急になっている。石段が終わると目の前に藁葺(わらぶ)きの蕎麦屋が姿を現す。暖簾(のれん)をくぐって中に入ると左側に履き物を入れるロッカーがあり、中は30畳ほどで広い。照明は蛍光灯だが開け放った戸の外からこぼれるように入り込む光が柔らかい。畳の上に置いたテーブルの一つに陣取ると近くの客も表情がおだやかでくつろいでいる。エアコンは無いが天然の風が涼しい。その風に思わず笑みがこぼれる。
ここで食べると蕎麦の味も美味しく感じられ、食を楽しむという気分になる。ある観光地のちょっと有名な蕎麦屋さんにも行った事がある。やはりその日も暑かった。昼時で店は混み、蕎麦は美味しかったが昼食は楽しめなかった。せっかく美味しい蕎麦を出しているのにもったいない。店主もさぞかし残念であったろう。店主にとってのご馳走は客が喜ぶ顔であるに違いないから。
今はエアコンが無いとつらい時代になった。昔の日本の家屋は夏に涼しく過ごせるような作りなっていたらしい。寒い冬は毛布をかぶれば暖かくなるが、夏に被って涼しい毛布などありはしない。
古い家は不便だが涼しい。新しい家は便利だが暑い。その暑さをエアコンでしのぎながら、なんだかずいぶん遠回りをしているような気がする。今となっては蕎麦は贅沢な食べ物だ。美味しく頂くためには蕎麦の生まれた昔を忍ばせるところまで足を運ばねばならない。それはきっとごまかしではない涼しさを知っている人達が蕎麦を出すところ。
そんな気持ちが通じるような気がするから、蕎麦の味は何倍にも美味しくなる。
-2001/8/23
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