死体が発見されたとき、まずはそれが自殺なのか他殺なのかが問題となるはずですが、それが23年も経ってから他殺だということがわかりました。なぜ自殺として処理されたのでしょうか?
一般的に自殺として処理する場合、以下の三タイプがあげられると思います。
- どう考えても自殺にしか見えなかった
- 他殺にすると面倒なので自殺として処理した
- 警察内部の犯人をかばうために自殺として処理した
死体は縛られ、ダムに投げ込まれていたことから、自殺と考えるのはいかにも不自然です。自分の体を自分で縛り、そしてダムの中に身を投げる、というやり方は、自分の体を身動きが取れないようにして、飛び込んだ後で確実に死ねるようにするためだった、と解釈したのかも知れませんが、かなり無理がありそうです。
最近になって出てきた匿名の投書の内容が本当なら、当時の複数の捜査官は他殺の疑いが濃い、と判断していたようです。これで、1の自殺にしか見えなかった、という可能性が消えます。
3番の警察内部に犯人が居て、その人をかばうために自殺として処理したのではないかという疑惑も、最近になって自分が殺したとする自白者の存在が明らかになったことで消えます。
消去法でゆくと、残るのは2番だけになります。つまり、たとえば事件が続いて忙しいときに、殺人事件となればまずます忙しくなるため、殺人事件であってほしくない、という心理が働くことは想像に難くありません。しかし、ここで基本的な疑問が沸いてきます。
それは、警察官なら犯人を探し出したい、という気持ちが湧き上がるはずだし、そもそもそんな人たちが警察官という職業を選んでいるはずだ、と考えるからです。
さらに疑問なのは警察の民主性や中立性を保つために設けられている公安委員会が、「当時の捜査に過失は無かった」と判断しているらしいことです。
実は過失があったのかどうかということもそうですが、過失なし、という判断に至った理由がよく説明されていないことが不思議です。なぜかというと、これをはっきりさせることこそが、公安委員会の仕事で、それができないなら存在意義が無いと思うからです。
こうしたどこかうさん臭そうな話に、本能的に敏感であるはずの新聞記者らの突込みが甘いのはどうしてなのでしょうか?これについては、記者らは警察から情報提供してもらう立場であるため、警察にとって都合の悪いことは書けないし聞けない、からだと言われています。
街の治安を守るために、その道の専門家として警察官を募集し、その給料は街の住民らから集めた税金を使う、というのが自治の基本であるのなら、給料の分だけ警察官がちゃんとやっているかどうか、知ることがどうしても必要です。誰もみていないとなるとさぼる人が出てきて、警察官の間に不公平が生まれ、やる気がなくなるからです。
なぜ他殺を自殺として処理したのか、という疑問について、きちんとした説明がされないのは、おそらくその理由があまりほめられたものではないからではないかと考えます。つまり、当時の長野県警の上層部に警察官に向いていない人たちがいたために、殺人事件にすると面倒だと考えたのかも知れない、ということです。
-2003/11/15
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