聖誕教会にたてこもったパレスチナ人への攻撃を行い、聖誕教会に被害を与えたことで、イスラエルはイスラム世界だけではなく、キリスト教世界まで敵に回すことになりました。
聖誕教会はイスラム教徒が住むパレスチナ地区のベツレヘムにあり、かつてイエス・キリストが生まれた馬小屋があったところに建てられとされ、十字軍遠征の際に補強されて要塞のような建物になっているそうです。
『紀元前13世紀頃に建国されたとされる古代イスラエルはキリスト教を国教とするローマ帝国に反抗したために、国は滅ぼされ、その民は世界中に散ることになった。』という、かつての歴史を繰り返そうとしているのでしょうか?その歴史はイスラエル自身が一番よく知っているはずです。それならどうしてこうした強硬姿勢を続けるのでしょうか?
- 米国の存在
イスラエルをみていると、先生が見て見ぬ振りをするのを良いことに、いじめを続けるお調子者のいじめっ子を見ているような気がしてならないのです。イスラエルはパレスチナ自治区をすべて手に入れるまで攻撃を続けるのではないかと言われています。
- 生物的本能
編者は幼い頃に、よく”シマトリ”という素朴なゲームをして遊びました。土の庭に棒で線を引いて閉じた円を描き、2,3人で遊びました。最初は円の中は誰の領地でもありませんが、じゃんけんで勝った順番に弧をを描いて領地を広げ、敵の領地を含めすべてを自分の領地にした人が勝者となり、そこでゲームは終わります。ここで自分が経験したのは領地をすべて自分のものにすることに対する素直な喜びでした。
自分のテリトリーを広げて安心したいと考えるのは犬が電信柱にオシッコをして、その匂いで自らの守備範囲を主張することからも分かるように、生物に備わった本能的な防衛機能なのだろうと思います。
- 力のアンバランス
暴走しやすいその本能的な動きに対して、限界を与えるのは相手の本能とのぶつかり合いによるバランスだろうと思います。
領地を広げようとする動きは平和なときにもよく起こります。日本の周辺でも、中国との間の尖閣諸島問題、韓国との間の竹島問題、そしてもちろん、ロシアとの間の歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)・国後(くなしり)・択捉I(えとろふ)の北方領土があります。もちろん日本はそれらの領有権を主張していますが、相手国も負けてはいません。双方がその領有権を主張しあうことで逆にその境界が明確になりバランスするのだろうと思います。
争うことを恐れて何も主張しなければ、笑顔の可愛らしい韓国女性が、「竹島よりは対馬の方が欲しい。」とどこかのテレビでかつて本音を漏らしたように、境界線とは双方の主張のバランスの上に成り立っているのかも知れません。
イスラエルとパレスチナでは貧富の差において、大きくそのバランスを欠いています。力が強いものが弱いものの領地を浸食し続けています。
- 不快なものの排除
民族同士が対立する場合に、異民族を根絶やしにしたいと考えてしまうことは、サラエボの民族浄化の悲劇からも分かります。個人的で感情的な対立は、ピークが過ぎれば熱が冷め、正常に戻ろうとするのですが、皆が同じような行動をとると怒りが増幅して収まりがつかなくなります。
- 仇討ちの連鎖
しかし、イスラエルは1948年の建国以来、ほとんど休む間もなく紛争を続けてきました。紛争の後は少しずつ領地を広げ続けています。この継続的な動きは、とても集団的なヒステリーが続いているという説明では不十分です。こうした長い間紛争が続く理由の一つには、アラブ人の私的制裁の文化があると言われています。日本にも、かつては仇討ちの習慣がありました。夫を殺された妻や、親を殺された子供が、親の敵に仇を打つという習慣で、最近の時代劇でも肯定的に扱われていて、心情的には十分に理解できるものです。
今でも、強盗に妻や子供を殺された場合は、犯人を自分の手で殺してやりたいと堂々と語る人を多く見かけます。しかし、日本では明治になってからこの仇討ち(私的制裁)は禁止され、違法となりました。
かつての日本がそうであったように、アラブ人のなかには今でも三代前の親の敵を討つという考え方が美徳として残っているのだそうです。アラブ人であるパレスチナ人にとって、イスラエル建国の1948年は三代前より記憶に新しいことになります。
上の五つは中東紛争を語る際によく言われることです。個人的には、もう少し思想上の根本の部分に原因があるのではないのだろうかという気がしています。それは宗教や民族の問題と言うより、個人的にも考え方が異なる”理想郷”についてのとらえ方についてです。
あなたは理想郷(ユートピア)の存在を信じているでしょうか?キリスト教徒のなかには頑なにこの理想郷の到来を信じる団体があります。自分はその考え方を否定するつもりはありません。思想信条の自由は何があっても保障されるべきだと思うからです。しかし、自分は不覚にもその到来を信じる人に向かって「その理想郷にたどり着いたら平和すぎて皆が退屈するのではないのか?」と意見したところ、大反発を受けました。
ユダヤ教は紀元前四世紀頃に生まれたとされていますが、ユダヤ教徒は救世主(メシア)の到来を待ちかねていたのだそうです。同じユダヤ人であったイエス・キリストを救世主と認める人はキリスト教徒となり、それを認めない場合はユダヤ教徒として残ったということになります。
ユダヤ教徒はいまでも救世主が現れて自分たちを救ってくれるであろうことを望んでいると言われています。救世主が現れ、平和な理想郷が到来することを望んでいるということでしょうか?
理想郷は天国(パラダイス)のようなところとも言われています。イスラム教ではその教義に従った人は天国に召されると教えられているようです。洗礼を受けてキリスト教徒になれば、選ばれた民となり、天国にゆけるという考え方もあるようです。
宗教や思想でも、これについてはいろいろな考え方があるようですが、日本人の多くはどう考えているのでしょうか?血の池があったり、針を千本も飲まされそうな地獄や、雲の上の天国があると信じるか、それとも人間は死ねば土に戻って何もなくなるだけだから、理想的な”天国”はどこにも存在しないと考える人もいるでしょう。
しかし、天国とか理想郷が存在しないと考えるのは寂しいものです。いくら科学が発達し、一つの現象をとらえて、それが霊魂では無いことを証明できても、霊魂や天国が全く存在しないことを証明することはできません。
理想郷がこの世に到来することを信じている人がいても、そうした期待を別の人が否定することはできないと考えています。これは思想の自由に関わる領域で尊重されなければなりません。ところが、その理想郷が対立する民族を根絶やしにすることによって、実現されると信じている人がいるとすれば、それは非論理的だと言わざるを得ません。
イスラエルのパレスチナに対する強硬な姿勢が、アメリカの不可解な支援や、やられたらやりかえすという報復の繰り返しによるにしてはあまりに長く続きすぎます。従って、イスラエル(の首相)は他民族であるパレスチナ人を排除することによって、この世に理想郷を作り上げようと考えているのではないかと勘ぐりたくもなります。
”いわゆる理想郷は存在しない”とするのが、孔子に始まる易の思想だそうです。中国の春秋戦国時代の争いの時代に国を穏やかに治めるために説いて回ったのが孔子です。
個人的には信じたくもないのですが、常に敵が存在するのが人の世だという意味のことを孔子は言っていたように思います。つまり、敵が存在しない、喜びだけに満ちたユートピアはあり得ないというのです。
孔子が生きていたら、是非イスラエルに行ってそこの首相とやらに”ガツン”と言って欲しいところです。しかし、たとえそれが実現したとしても、かつての春秋時代のように、まったく相手にされないのだろうと思います。イスラエルは自らのやり過ぎのために、再び亡国の民に戻ったときに初めてその教えを身をもって知ることになるのでしょうか?
-2002/4/10
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