編者は自然破壊という言葉があまり好きにはなれません。人類は自然破壊を繰り返してきたと訴える人の心理にはまるで人類は自然の一部では無いと心の奥で考えているような気がするからです。そして自然なる物と人工的な物とを分けようとします。でもそう考えているのは人間だけであって、それ以外の知的生命が地球を見れば、人間が自然破壊と呼ぶ現象もまた自然現象と捕らえるはずです。
その自然の一部に過ぎない人間がいわゆる自然破壊を行なう原因はおそらく人間にとって便利なように無謀にも地形を変えているためでしょう。でもその便利なはずの施設や建造物が長い目で見たときにもまた便利であり続けるかどうかは何ともいえません。時の為政者はその当時の事情には十分気を配ってもその先のことまで考えるのは難しいと思います。
田中康夫長野県知事の書かれた「脱ダム」宣言はネット上に公開されています。読みたい方は
こちらをご覧ください。編者は長野県民ではないこともあり、気楽に意見を述べられる立場にあります。また知事のように為政者としての責任もありません。「脱ダム」宣言を読んだとき、これは田中知事の挑戦であると感じました。でもこれは誰かが始めなければならない挑戦です。
水を治めると書いて治水ですが、下諏訪地域にダムを造っても河川改修工事を進めても完全な治水は有り得ないと思います。何か起きたときには為政者は責任を取れというのは論理のすり替えだという気がします。どちらを選択するかはその地域と長野県が決めることでそれだからこそ自治だと思います。
人の経験が記憶を作り、その記憶が人の人格を作るように、その地域がどんな地域になるかは過去の歴史の積み重ねだと思います。先々の事まで考えた上ならどちらに決めても構わないでしょう。それを考えるための「脱ダム」宣言ではないかと思います。