日本で行われたなんとかオープンの女子シングルス決勝でシャラポワ選手が大会二連覇した、という報道がありました。これだけならよくあるニュースの一つですが、インタビューを耳にして気になったのはロシア出身と言われながら英語で話し、しかもその英語がうまい、ということでした。テニス上達のためにロシアから米国に渡ったことが原因のようですが、圧倒的な強さの秘密もまたこの辺りにあるのでしょうか?
シャラポワを”Maria Sharapova ”で検索してみると、最初に登場するのが
MariaSharapovaと題する、重い、非公式サイトです。トップページではさっそくジャパンオープンの結果が報じられていて、対戦相手のワシントンを圧倒した(overpowered)とあります。
さらに下の方には10月3日の韓国オープンで、ポーランドのドマチャワカをさんざんにやっつけ(trounced)て優勝。シャラポワは強すぎる火力を持っていて、58分間の試合でサーブを一回しか受けさせなかったそうです。この火力(firepower)と称されるシャラポワの強さはどこから来ているのでしょうか?
それではシェラポワの生い立ちを調べてみたいと思います。検索する場合は、生い立ち(personal history)より、伝記(biography)の方がよく引っかかるようです。17歳にして伝記とは違和感を感じるところですが、伝えられている記録、という意味なら理解できます。
さっきの重いサイト内の
http://www.mariaworld.net/biography.htmには、4歳でテニスを始め、6歳のときモスクワで開かれたMartina Navratilovaのイベントに参加。9歳の頃(まで)にフロリダにあるテニスアカデミーでトレーニングを受けたようですが、ビザがもらえなかったり経済的な理由(due
to visa restrictions and finances)で、二年間母親と離ればなれになったとあります。
また関心事はファッション、カラオケ(singing)、ジャズダンスに映画とあります。映画のなかでのお気に入りがパールハーバーとあります。パールハーバーは日米開戦となる真珠湾攻撃を描いた映画(2001年)のはずですが、迫力のサウンドが気に入ったのでしょうか?
子供の教育のために引っ越しをする親の話はよく耳にしますが、シェラポワの両親もそんな親だったようです。そして彼女は見事に親の希望を叶えたことになりますが、逆に両親はなぜそこまでテニスに熱心だったのでしょうか?
INSIDE JoongAng Dailyのコラムによると、父親のYuriの気概(grit)が優勝の助けになったとあります。父親のユリ・シャラポワは若い頃に、スポーツ選手になるのは旧ソビエトから抜け出すための手段、と考えていたようです。彼はサイクリスト(cyclist)になるのが望みでクロスカントリースキーにも挑戦しましたが苦労は実を結ばず、子供たちに夢を託すことにしました。
妻のエレナ(Yelena)が妊娠四ヶ月の時、チェルノブイリ事故が起こり、子供たちへの悪影響を避けるために生まれ故郷から抜け出す決意を固めます。家族は油田の出るシベリアに移り住み、ユリは建設現場で働きます。
マリアが三歳になったとき、家族はより暖かい気候の黒海のリゾート地に移り住み、スポーツをする環境が整います。そしてマリアが四歳になったとき、マリアをテニスプレイヤーに育てる決心をします。なぜテニスだったのでしょうか?理由は父親のユリ自身が熱狂的なテニスファン(fanatic)だったからのようです。
マリアは七歳の時、フロリダの有名なNick Bolletieriテニスアカデミーに連れてゆかれます。ここでユリはマリアの右利きを左利きに変えようと、コーチとマリアに要求します。右利きのままでは力が足りない、と考えたからで、この訓練のために一ヶ月かかりました。このことはまたユリの決意と頑固さ(obstinacy)を証明することにもなった、とあります。.
つまりシャラポワの強さは、『エースをねらえ!』の宗方コーチや、『巨人の星』の一徹のような父親に鍛え上げられた、「ひろみ」や「飛馬(ひゅうま)」の強さに似ている、ということになりそうです。
-2004/10/11
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