忘れてしまいたい過去の失敗をワザワザ思い出し愚痴をこぼす。愚痴をこぼしても何も生まれないことを承知しながら、そして「前向きであらねばならぬ」という世間の常識を知りながら、その常識にあえて逆らおうとする。それはささやかな世間への反抗であり、反抗であるがゆえに「自己を解放する」ことでもある。
ところがこのささやかな反抗は人前でやる事ではない。人前で愚痴をこぼせば嫌われる。幸せが逃げる、という人もいる。しかし愚痴とはある意味真実を語ることでもある。過去の失敗に正直に向き合うことでもある。しかし真実は、たいていの人にとって劇薬であり、世間はそれに打ちのめされることを嫌い、愚痴をこぼす人を遠ざけようとする。
そんな世間に、『ヒロシ』と言う名の一人の青年が現れた。彼は、事もあろうにマイクの前で自虐ネタを披露する。本来なら暗く沈んでしまうはずのネタを舞台で披露する。リアル過ぎて引いてしまうネタだ。痛々しいはずの自虐ネタで、なぜ観客は笑えるのか?
皆の前で真実を語るためには「フィクション性」、つまり「嘘っぽさ」が必要なのかも知れない。観客が真実という劇薬を受け入れるために、嘘っぽく見せる特別な仕掛けや舞台装置が必要なのだ。そう考えると、バックグラウンドで流れる『ガラスの部屋』という曲の効果は大きい。
失恋の歌であり、三角関係を描いた映画の挿入歌でもあるこの曲を流すことで、自虐ネタを、まるで映画のなかにちりばめられたエピソードのように見せてしまう。
そしてネタが終わると、まるで悲惨な名作映画を見終わった後のように、”これ以上の暗さはないだろうから、待っているのはそれよりはもう少しましな未来だ”、と思わせる。なるほど、これならウケるのも解るような気がする。
-2006/2/4
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