坂道を下ってはまた上る夜の帰り道。下りながら、下りきったところを横切る川に架かる橋のあたりから若い男の怒鳴り声が聞こえてきました。それは誰かに怒りをぶつける声でした。自分が橋を渡ったとき、女性の涙声が聞こえました。おせっかいな編者は若い男が切れないように穏やかに「大丈夫ですか?」と声を掛けました。「大丈夫です。」という男の意外に冷静な返事が返ってきました。私はさらに続けて「何かが起きてしまうと後が大変ですよ。」と加えてその場を去りました。20メートルほど通り過ぎたところでまた怒鳴り声が聞こえました。
事情を知らない編者が怒鳴り声の訳を知るはずも無く、訳がわからない、理解できないことほど怖いことは無いと考えながら坂を上りました。最近は怒らない人は器が大きく、怒れない人は愚かだと言われる言葉の意味を良く考えます。たしかに明らかに道を大きく誤ろうとする人に向かって本気で怒ることは必要でしょう。でもそれは自分が誤っていると思っているだけであって何が正しいことなのかを知る人はいません。ただ相手の人が同じ人間ならどちらの方が後で後悔しないのだろうかと考えて自分の意見をぶつけるだけです。
怒らなければいけない時より怒ってはいけない時の方が多いのが現実です。その度にその人の人間としての大きさが試されます。思うにまかせず腹が立つ相手の人は敵ではありません。そして怒りはたいていの場合事態をより深刻な方へと動かします。場合によっては取り返しがつかないことにさえ発展します。相手もそうですが自分もまた怒りの被害者となります。
闘うべきは隣人ではなく、無責任に行き先も知らず湧き上がる自分自身の怒りという感情です。怒りの原因の些細さに比べ怒りのもたらす結果は重大すぎるためにそのバランスを取るための闘いです。怒れない人に成ろうとするわけではないので知恵も必要な闘いです。それはゆっくり冷静に考える余裕が無いから訓練が必要な闘いです。怒りに任せて大事な人を傷つけないための闘いです。そして男でも女でも自分に静かな自信を与える、勝利すべき闘いです。
-2001/1/26
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