帰りにコンビニに寄ったら元気な幼稚園児くらいの男の子に遭遇しました。編者がレジで順番を待っていると右側のお菓子売り場の棚の間から倒れるように泣きながらお菓子が欲しいとレジの前にいる親に訴えていました。
大人になると欲しい物を手に入れるための手段は多くあります。お金があれば買うし無ければ借りるか貯めます。あるいはおねだりという説得術を使うこともあります。
ところが幼稚園児には小遣いも無く、親を説得できるほど口が達者でもありません。それでも欲しい物は欲しい。欲しいと親にねだってそれがかなわない場合は最後の手段に訴えます。あたり構わず泣きじゃくるときの声が大きいほど願望と自己主張が強いことになります。精一杯の自己主張をした彼でしたが「どんなに泣いたって欲しい物が手に入る訳じゃないのよ。」と母親に言われて、彼の作戦は失敗に終わりました。
赤ちゃんは泣くことのみが自己主張で、幼稚園児になると言葉を使って自己主張を始めます。小学生になるとどこで覚えたのかもう少し知恵が回るようになります。
そう言う自分も小学生の頃にはずる賢くなって、漫画本を前にしてそれがどうしても欲しかったとき、「たまには買ってくれてもいいじゃないか?」と店の人に聞こえるように親に言ったことがあります。親はきまりが悪るかったのか買ってくれました。今思うとずいぶん嫌な子供だったと我ながら反省しています。
高校生になっても泣き虫は自己主張の手段であり続けます。人に怒られて泣いている人にその訳を聞くと悪いと分かっていながらまた同じ事を繰り返してしまう自分が情けなくて、悔しくて泣くのだと言います。欲しいのはもはや物ではなく、こうありたいと願う自分自身です。
大人になるとさらに泣き虫の理由が複雑になってきます。感動するときの涙は何を主張しているのでしょうか?それは精一杯生きてみたいと願う自分が存在することを主張しているように思えてなりません。
-2001/7/14
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