日経ビジネス3月20日号に掲載のテレビ・ウォーズ「ペ・ヨンジュン、映像立国の刺客」に連動したインタビューです。誌面とウェブを合わせてご覧ください。

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――アミューズがタレントのマネジメントだけでなく、コンテンツ制作まで手がけているのはなぜですか。

大里 僕は昭和44(1969)年に渡辺プロダクションに入って、約9年間お世話になったんです。

 入社4年目ぐらいだったと思うんですが、(渡辺)晋社長(当時)に勝手にリポートを書いて出したんですよ。社長と(渡辺)美佐副社長(当時)ばっかり海外に行くけど、将来のある若手社員に行かせるべきだ、とね。確か、夜、社長の机の上に置いてきたんだ。

 そしたら、社長が副社長に「おまえ、来年こいつをロンドンに連れていけ」と言ってくれたんですよ。ロンドンでは「IMC(International Music Council)」という音楽ビジネス関係者の国際会議に出席して、あとはミュージカルをたくさん見ました。ドイツやフランスにも行きました。

 そのことが僕の人生をむちゃくちゃ変えましたね。あれがなかったら、今のアミューズはないし、この年まで仕事をこんなに楽しくやってこられることはなかったと思う。アミューズの事業展開を含めて、あらゆる面でのきっかけになった。

▼「ロッキー・ホラー・ショー」にショックを受ける

――ロンドンでどんなミュージカルを見たのですか。

大里 いろいろ見たけど、「ロッキー・ホラー・ショー」が一番すごかったね。ロンドンで会議と会議の間に時間ができたんですよ。それで街を歩いていたら「ロックミュージカル」と書かれたチラシをもらったんですね。暇だし、面白そうだと思ったから、ふらっと入ったんです。

 そしたら中はガラガラでした。今、考えると初日だったんだよね。ところが、それを見て僕はぶっ飛んだんですよ、楽しくてね。音がむき出しでバンドマンも見える。ロックライブのようなミュージカルで、こういうのもありなのか、と思ったね。

 1週間後に副社長とまた行ったんですが、もうチケットが買えない。面白いミュージカルはすぐに人気になる。宣伝じゃなくて、口コミなんですよね。やっぱり芝居は見た人の評判が悪ければ、ロングランできないですよね。

 映画「サタデー・ナイト・フィーバー」で有名なビー・ジーズのマネジャーだったロバート・スティグウッドというプロデューサーとの出会いも大きかった。彼はRSOというレコード会社の社長で、舞台「ジーザス・クライスト・スーパースター」のプロデューサーでもあった人ですよ。ロンドンでその人の自宅に招待されたんです。

 僕は彼にあこがれました。僕の中では、舞台、映画、マネジメント、シンガー、これが全部一体の仕組みでできると思った。そのモデルが彼でした。

――ナベプロを辞めて独立されたのはいつですか。

大里 1977年に辞めました。でも、ナベプロ時代に担当していたキャンディーズが解散宣言したもんだから、社長に呼ばれて引退するまで、マネジャーを続けることになった。それで、ファンクラブ向けのさよならコンサートを全国でやったり、最後の2枚組アルバムを作ったり、後楽園球場でのファイナルコンサートを企画したりした。あれは、でっかいコンサートだったよね。それこそ、翌朝の日経新聞の1面にも空撮写真が載っていましたからね。芸能ニュースで、あんなに世の中が騒いだことはなかったんじゃないかな。

▼「ザ・ベストテン」とキャンディーズ引退の関係

――テレビではTBSの「ザ・ベストテン」が始まり、アイドルブームが絶頂期にさしかかっていました。

大里 実は78年1月のザ・ベストテンのスタートと、4月のキャンディーズ引退は密接に関係しているんですよ。

 キャンディーズは引退が決まって、ナベプロとTBSが組んで制作していた「8時だョ! 全員集合」から降板したんです。ところが、TBSとしては、それから6カ月かけて引退していくキャンディーズは、おいしい商品なわけですよ。だから、ザ・ベストテンという新番組で追いかけさせてくれと、口説かれたんです。それで、番組でずっとフォローして、引退まであと何日とカウントダウンしていったのね。

 カウントダウンしていくと視聴率が上がるので、キャンディーズがどこにいても、追っかけ中継する。ベストテンは生中継の機動力が売りだったでしょう。あの番組のおかげで、彼女たちがどこにいるか全部ばれちゃって、広島では暴走族が1000人ぐらい集まるなんてこともあった。あれは本当に怖かったな(笑)。

 カウントダウンで、ファンならずとも煽られちゃった部分があるんじゃないかな。それはまさしくテレビメディアの力で、解散劇を非常にうまく盛り上げていただきました。番組としても、キャンディーズのファイナルに向かって視聴率が毎回毎回、過去最高を更新していくわけですよ。最終的には38%までいったんじゃないかな。

――大里さん自身は、今は制作の方に仕事の軸足を移していますね。

大里 マネジメントは優秀な社員が揃っているから、僕はそっちよりも昔からやりたかったミュージカルや、インターナショナルな映画を作っていく。今はそういうことができるから、ありがたいですね。なるべくインターナショナルな仕事をという考えが、韓流映画の制作とか配給につながっていきました。

▼韓国映画はすべてが日本より上だ

――韓国の映画は、なぜ強いのでしょうか。

大里 韓国映画はよくできているでしょう。僕は「シュリ」を見て、すごく感動したんだよね。何だよ、日本人より技術が上だな、と思ってね。

 もう全部がいいんですよ。アイデアがいい、演出がいい、脚本がいい、役者がうまい、カメラマンがうまい、照明がうまい。本当に全部だよね。

 自分もやってるんだけど、日本の映画はあまり好きじゃない。日本は映画の企画で客が来ないから、テレビ主導の企画で映画をやっている。韓国は映画の企画にちゃんと映画のファンが来るんですよ。韓国は昔の日本と一緒なんです。映画の方がテレビよりもギャラが高い。俳優も監督もね。それから印税も入る。だから環境が全然違うんですよ。

 韓国の映画振興委員会には、若くて頭のいい人材が集まっている。委員会には(前身の映画振興公社時代を含めて)14~15年前から政府の助成金も850億円ぐらい出ています。国が作った映画の大学も、演劇学校も、スタジオもある。日本にはそんなもの何にもないですよ。日本の政府は映画、演劇文化に本当に鼻くそぐらいのお金しか出さないからね。歌舞伎とかの伝統芸能と同じぐらいの資金を、現代アートやエンターテインメントに投入すべきだと思うよ。

――政府のバックアップの有無がやはり大きい。

大里 韓国の釜山市は、街全体で映画産業をバックアップすると市長が宣言している。事実、釜山国際映画祭は最高の映画祭ですよ。2年行ってみて、僕は虜になってしまった。

 いろいろな映画関係者が世界中から集まってきて、朝から晩まで交流している。どの会場も超満員。あの活気を見ているとうらやましい限りだね。片や東京国際映画祭は、市民が来る祭りじゃないもんね。アジアでは、やっぱり釜山映画祭がナンバーワンでしょうね。活気という面では、ベルリン、カンヌより釜山の方が上ですよ。

――韓流ブームは一過性のものだという見方もありますが。

大里 日本の業者が競い合うように作品を買い付けて、値段が上がりまくった。それで今は損してるんだよね。損した人たちが「韓流ブームは終わりだ」と言うんだよ。でも、これはブームじゃない。国を挙げて映画に力を入れているという裏づけがあるからね。

▼よし、それならヨーロッパ映画をやってやろう

――「ブーム」はむしろ日本の責任。

大里 映画や小説の使命は、もちろんエンターテインメントがベースだけれども、それ以外にもあるよね。でも、日本の映画制作者はエンターテインメントという発想でしか作らないし、配給会社もそれしか考えていないからダメなんですよ。韓国映画がちょっと売れたら、みんなで買いに行っちゃう。ヨーロッパ映画にもいい作品があるのに、今は全然買おうとしない。本当に偏っちゃっているよね。

 だから、僕自身は韓国映画がこれだけ輸入されるようになったから、無理してアミューズがやらなくてもいいと思っている。よし、今度はヨーロッパ映画をやってやろうとね。誰も買いに行かないから、いい映画が安いんだもん。ヨーロッパの深みのある映画を日本の若い人たちに見せるには努力が必要だね。日本の映画業界の人もそこまで考えて映画を作ってほしいな。

 僕たち団塊の世代は、昭和30年代の映画を見て育ったでしょう。洋画もたくさん入ってきていて、その洗礼を受けている。

 そして、僕が大学生ぐらいの頃から、「シャボン玉ホリデー」とか「夢であいましょう」とか、テレビ文化が出てきた。当時は上質のエンターテインメントがテレビにたくさんあったんですよ。各局横並びのお笑いの番組を見ている今の若い人とは、そこが大きく違うのかもしれないな。

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ホリエモンが逮捕されても、テレビ局を襲う荒波は止まらない。次回(本誌3月27日号)、テレビ興亡史は最終章へ。

(聞き手:日経ビジネス編集部、写真:柳生 貴也)


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日経ビジネス1月9日号から3月27日号の連載「TV WARS テレビ・ウォーズ」に連動したキーパーソンインタビュー。