衰えた日本人の勤労意欲
しかし、1955年の神武景気の頃を境として「働かざる者食うべからず」の言葉はあまり使われなくなった。1960年の安保闘争と三井三池争議のあとはほとんど耳にすることがなくなった。そして「黄金の60年代」といわれた高度成長のなかで言葉の化石になってしまったのである。一つの言葉の化石化は時代の変化の反映である。この言葉の消滅とともに、勤労を愛する精神も弱まっていった。
だが、1970年代までは日本人の勤労精神はまだ完全には廃れてはいなかった。1973三年の第1次石油危機による日本経済の危機に直面して日本人の勤勉さが発揮された。
しかし、1980年代のバブル経済のなかで日本人の勤勉さは根本から崩れていく。「働かざる者食うべからず」の思想は忘れ去られた。日本国民は勤労精神を喪失し、遊び心の方を賞賛する方向に傾斜するに至った。
90年代の「平成大不況」のなかで、日本の社会経済は急激に退廃する。この背景として無視できないのが日本人の勤労意欲の衰退である。
日本人は再び「働かざる者食うべからず」の精神を回復し、出直さなければならないと思う。
もう一つ、戦後によく使われた聖書のなかの言葉がある。次の言葉である。
人はパンのみにて生くるにあらず(新約聖書)
敗戦直後の激動期(昭和20年代)に左翼知識人に接触した人で、この言葉を耳にしなかった者はほとんどいないのではないかと思う。
「人はパンのみにて生くるにあらず」――この言葉の出典は、新約聖書「マタイによる福音書」第4章である。そこにはこう書かれている(日本聖書教会『聖書』、1955年)。
「さて、イエスは御霊(みたま)によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になれた。すると試みる者がきて言った。『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい』。イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」
このイエスの答えは旧約聖書「申命記」第8章の次の言葉のことである(出所、同前)。
「主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの祖先たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」
なお、「マナ」とは天から与えられた食物(植物の種のようなもの)のことである。
聖書の言葉が戦後左翼運動の一つの旗印になった
しかし、戦後の左翼知識人によるこの言葉の使われ方は聖書とは少し違うものだった。拡大解釈して使っていたのである。
[人間が生きる目的はただ食べることではない。人間には食うこと以上に大切なことがある。人間はより高い理想の実現のために生きるべきだ。世界平和のために、搾取のない自由で平等な社会をつくるために生きるのだ……]
左翼知識人のなかには少数のキリスト教社会主義者や非マルクス主義者もいたが、大多数はマルクス主義の信奉者だった。聖書のなかの言葉が唯物論者によって盛んに使われたのである。
カール・マルクスは、20代半ばの若い時代の著作『ヘーゲル法哲学批判』のなかで「宗教は民衆の阿片である」と書いた。これは、「宗教は阿片のように民衆を酔わせ、非現実的な幻想の中に誘い込むもので、民衆を現実社会の苦しみから解放するのを妨げる」という意味である。この言葉は唯物史観の原点となった。
第2次大戦後のわが国では、唯物史観の信奉者が、聖書の言葉を使って、大衆に反体制運動への決起を呼びかけていた。「人はパンのみにて生くるにあらず」というキリスト教徒にとっての大切な言葉が、戦後の激動期に左翼陣営の一つの旗印になった。言葉は一人歩きする。人の心を打つ力をもつ言葉は本来の意味とは独立して使われるのである。
しかし、この言葉もまた1955年以降少しずつ忘れられるようになり、1960年代以後はほとんど忘れられてしまった。それとともに、日本人全体が「カネのためにのみ生きる」ようになり、より高い理想を求める意欲が薄れてきたように私には感じられる。90年代における日本の社会経済の著しい退廃の背景の一つがここにあるように思う。