the other side of my days
ご意見,ご感想,ごいちゃもんなどございましたら
NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>まで。


2004/05/02(Sun) 共産主義宣言
2004/05/04(Tue) モテるために
2004/05/05(Wed) マイルドな休日
2004/05/07(Fri) 是兵法の肝心也
2004/05/08(Sat) チャット中毒
2004/05/10(Mon) ブルバキ
2004/05/12(Wed) 黄色いゴーグル
2004/05/13(Thu) 結跏趺坐でサトリを
2004/05/14(Fri) 静かに座るだけでも
2004/05/17(Mon) シャノンのジャグリング定理
2004/05/18(Tue) レッシグ教授のアジテーション
2004/05/20(Thu) 台湾系出会いサイト
2004/05/23(Sun) 華厳の滝
2004/05/26(Wed) 風邪
2004/05/27(Thu) 果物は傷む
2004/05/30(Sun) 甥っ子
2004/05/31(Mon) 台北出張


2004/05/02(Sun)

共産主義宣言

休日の東京を走っているクルマは、どうも車種が違う。SUVっていうの? RVっていうの? プレートナンバーも、多摩、所沢などの田舎ナンバー多し。
マルクス、エンゲルス『共産党宣言』(大内兵衛・向坂逸郎訳、岩波書店)、読了。なんというか、改めて読んでみるとブルジョアとプロレタリアの対立という構図って、悪くないように思える。人類の歴史とは階級闘争の歴史だったというのは、今ではなんだか空々しく響くけど、被支配階級を搾取する特権階級の発生・存在をいかに抑制するかという点は、これからもずっと重要なテーマであり続けるのだろう。
中央集権的な共産主義が、権力の堕落と独裁恐怖政治を生み出したことはまちがいないし、私有財産の否定や計画経済が、市場経済の効率にはるか遠く及ばなかったどころか、餓死者が出るような社会を生み出すことになったこともまちがいない。だからといって、共産主義「的」な思想が死んだワケでも、不要になったわけでもないんだろう。
「もっとも進歩した国々にとって一般的に適用されるであろう方策」として、宣言が高らかに歌い上げる共産主義的な政策の例は、図らずも、かつての日本、あるいは現在の日本のそれだったりする。
  1. 土地所有を収奪し、地代を国家支出に振り向ける。
  2. 強度の累進税。
  3. 相続権の廃止。
  4. すべての亡命者および反逆者の財産の没収。
  5. 国家資本および排他的独占をもつ国立銀行によって、信用を国家の手に集中する。
  6. すべての運輸機関を国家の手に集中する。
  7. 国有口上、生産用具の増加、共同計画による土地の耕地化と改良。
  8. すべての人々に対する平等な労働強制、産業軍の編成、特に農業のために。
  9. 農業と工業の経営を結合し、都市と農村との対立を次第に除くことを目指す。
  10. すべての児童の公共的無償教育。今日の形態における児童の工場労働の撤廃。教育と物質的生産との結合、等々、等々。
今の日本は、勝ち組・負け組という露骨なコトバが象徴するように、資本主義、市場原理主義が当然の「答え」と言わんばかりに非共産主義的な方向へ走っているように思う。資本主義経済の効率性とか、グローバル経済による分業が生み出す豊かさを享受しておきながら「スロー」「自分らしく」などという甘ったれたコトバを吐く小僧に与するわけじゃないけど、いまの日本の論調って、極端に走りすぎていることが多いように思える。共産主義が、その純粋な形態になればなるほど社会が機能しなくなるのと同じで、極端な資本主義や極端な市場原理主義だって、その純粋な形態というのは(もしあるとすれば)モンスターのようなものにちがいない。究極の資本主義社会を生きる人々は、やはりどこかモンスターのような顔をしているにちがいないと思う。
初版から何十年かにわたってヨーロッパの各言語に翻訳されていったなかで追加された序文の数々が意外におもしろい。1892年ポーランド語版への序文には、こうある。このときすでにマルクスは死んじゃっているので、署名はエンゲルスのものだけ。
『宣言』がこのごろ、ヨーロッパ大陸の大工業の発展に対するいわば一つの分度器となっていることである。ある国の大工業がのびる程度に応じて、その国の労働者のあいだに、所有階級に対する労働者階級としての自分の地位をはっきりさせたいという欲求が成長し、かれらのあいだに社会主義運動がひろがり、そして『宣言』への需要が増加する。
社会主義革命が歴史的必然だと信じられていたのも、少しわかるように思う。マルキシズムという幽霊が徘徊した時代。なにより、産業革命が欧州大陸に広がっていくなかで、非人間的な労働が人々から生きる喜びを奪っていったような時代。
1951年の邦訳初版から20年経過した時点で加えられた短い「改訳に際して」という文章に、なんか引っかかるものを感じる。
別に述べることはない。……(中略)、この書の思想が、日本の労働者の手で、その当然な結実をなしつつあることは、どんな保守反動屋も否定することは出来ない。1970年冬 向井逸郎
1970年といえば、ぼくが生まれた年だから、当時がどんな風だったかよく知らないけど、なんだか気恥ずかしくなるような不遜さを「〜屋」というコトバに感じるんだけど。
もう少しメモのために引用。私有財産の廃止に関して、ちょっとドッキリ来るようなことを言っている。
諸君は、われわれが私有財産を廃止しようと欲することにおどろく。ところが、諸君の現存社会では、私有財産は社会成員の十分の九にとっては廃止されているのだ。それは、十分の九の人にとって存在しないというまさにそのことによって、存在しているのだ。
アメリカでは富の80%を人口の5%の人々が独占している、なんて話がありました。もちろん世界では、富の80%を5%の国々が独占しているという話も。大幅な偏りがあって飢餓がない世界と、偏りがなくてみんなが飢える世界とどっちがいいかと言えば、当然飢餓がない世界なわけだけど(アメリカのホームレスのデブり具合を見よ!)、果たしていま現在のバランスがベストなのかどうかといえば、誰にも答えはわからないんじゃないだろうか。
私有財産の廃止とともに、すべての活動がやみ、一般的怠惰がはびこるであろう、と異論がある。この考えにしたがえば、ブルジョア社会は、怠惰のためにとうに破滅していたにちがいない。なぜなら、この社会では、働くものは儲けない、儲けるものは働かない、からである。こういう疑念はすべて、資本がなくなれば賃金労働もまたなくなる、という自明のことを他の言葉で言い直しただけである。
これでハッキリわかるのは詭弁というのは、どんな場面にも可能ってことでしょうか。

2004/05/04(Tue)

モテるために

Geoffrey Miller、『The Mating Mind---How Sexual Choice Shaped the Evolution of Human Nature』(2000、Random House)、読了。性淘汰のお話だけど、これは感動的におもしろい。ドーキンス以来の目が覚めるような進化論。

2004/05/05(Wed)

マイルドな休日

プールへ。2200m。少しずつ調子が戻ってきたような。筋肉も戻ってきた。
かすかに日記のCSSを書き直した。ようやくulやらpreやらblockquoteやらを、まともに使う気になれた。IEで画像と文字の位置関係が崩れるのも修正したい(ちなみに、IEのバグです。ぼくのせいじゃないぞ……)。

2004/05/07(Fri)

是兵法の肝心也

宮本武蔵『五輪書』(鎌田茂雄訳、講談社)、読了。齢六十にして死期を悟った武蔵が、熊本あたりの洞窟に閉じこもって一気呵成に書き上げた「これがワイの剣の道やッ!」の書。現代語訳と解説が加わったもの。原文と訳文にいちいち続く訳者の解説が、ちょっとくどくてうるさい。
相手を倒すこと、斬り殺すこと以外の一切を考えず、ただ、勝負に勝つことだけのために生きた男だから、語る言葉はどれも徹底的に合理的。鍛錬でも生活でも実戦でも、ともかく相手を斬ることに役立たないことは一切しなかったという。「恋慕の道、思いよるこころなし」として、オンナもばっさり切り捨てている。ストイックだ。
枝葉末節の小手先の技の解説などは一切せずに、話はむしろ精神論に近いような心の持ちようといった感じ。とはいえ、5種類あるという構え方、相手との間合いやリズムのとりかたと崩し方、切り返し方、足の使い方、武器の種類と使い方と、やっぱり兵法書にはちがいない。これを精神論の書として読むには、あまりにも具体的すぎるし、迫力がありすぎる。虚飾や文章技巧とは無縁で淡々と語るのだけど、相手の胸元に刀より先に一気に踏み込めなんて話を読んでると、むさ苦しい武者の息づかいまで聞こえてきそう。本当に迫力があって、1人であっても10人や20人を相手にできるのだと言い切ってる箇所なんかを読んでいると、本当にそんな気がしてくる。肉弾戦や近代的な武器を使わない戦闘では、強いヤツというのは、誇張じゃなくマジで一騎当千の働きをしたのかもなと、信じる気になってくる。
書いた本人は、どんな兵法書も古典的文献も参考にせずに、自分の言葉で書いたといっているけど、きわめて禅的な、哲人然とした発想や表現方法が随所に見られる。贅言がなく、論理はシンプルできわめて力強い。ファンが多いのも道理だ。
格闘技って、一種のアートだから、非戦闘時に技巧や粉飾に走るのはある意味自然なこと。そういうのを武蔵は断じて認めない。他流派批判を展開する「風の巻」で、ばっさり「奥義なんてないのだ」と言っている。
我一流において、太刀に奥口なし、構に極りなし。唯心を持って其徳をわきまゆる事、是兵法の肝心也。(わが一流の兵法にあっては、太刀の使い方に初心も奥義もない。極意の構えなどということもない。ただ心の正しい動きによって、兵法の徳をわきまえることが、最も肝心なのである)

2004/05/08(Sat)

チャット中毒

GW中は、やたらとチャットしている気がする。チャットには中毒性がある。英会話にも中毒性のようなものがある。やっぱり語学は日々練習あるのみってこともあるので、このチャット中毒状態は、比較的よい中毒だと思っている。週に2度NOVAに通う人の、ゆうに10倍以上の時間は英語をしゃべってると思う。
最近ノンネイティブにもネイティブにもよくほめられるようになった。けど、ほめられているうちは、しょせん「おじょーずですね」というお愛想ってことだ。本当に外国語がうまい人というのは、「あなたの言葉、ちょっとおかしくないですか?」とネイティブに怪訝な顔をされるものだ。

2004/05/10(Mon)

ブルバキ

大学のときゼミで読まされた数学の本はフランス語だった。数学の記述は言語によらず、だいたい同じようなものだし(英語とフランス語と日本語しか見たことないけど)、用語や記号類も似たようなものなので、中身の数学がむずかしいということはあっても、フランス語自体が障害になったりはしない。
フランス風の記号の使い方というのがあった。使われる記号類が若干日本のそれとは違う。研究室の先輩は、どっちでも好きなのを使えばいいと言ってはいたけど、何となくフランス風のほうが本格的でかっこいいんだということが下級生のぼくらにもわかった。たとえば、「≦」は「≤」とイコールを1本の線で書くのが、典型的な違いだった。
表している内容は同じでも、厳密さや抽象度が違うというニュアンスも、たぶんあった。「≤」が用いられるのは、たとえば位相空間での列unの収束性を議論するようなときであって、決して具体的な関数や数値なんかを書き表すものじゃないぞ、というような、少し気取ったニュアンス。ε-δ論法を知って初めて微分法で「なんかごまかされてるような気がする」という気分がスッキリと晴れるように、「≤」を使う数学では、すべてが厳密に晴れ渡っている。
「≦」と「≤」は、まったく同じ記号なのだけど、学生たちにとっても、ふつーの数学と純粋数学とを分かつ分水嶺のような役目を、主観的には果たしているらしかった。それまで「授業」と呼んでいたものが、大学で「講義」と偉そうな呼び名になるのと同じようなものかもしれない。ともあれ、「≤」のような記号の使用は、抽象的な純粋数学を語る秘密の呪文のようなものなんだと、ぼくは少しそんなふうに感じていた。物理学科のようなところで教えられる数学は、解析にしても線形代数にしても、実用のためという目的があるので、その基礎づけというような話は、あまりやらないのだけど(たぶん。講義でなかったからよく知らないけど)、血迷ったぼくが行った数学系の研究室では、厳密性と抽象性が命という数学らしい風が吹く場所だった。
M・マシャル『ブルバキ---数学者達の秘密結社』(高橋礼司訳、シュプリンガー・ファラーク東京)、読了。これを読んで、「フランス風」というのがどこから流れてきた風だったのか、いまになってやっとわかった。「≤」はつまり、ブルバキが創始した記号法であり、ゼミで読まされたフランス語での数学の本というのは、全7000ページを超える未完の大著『数学原論』が取った文体スタイルを踏襲した正統派ってことだったんだ。集合論や距離空間、位相空間などを基礎におき、直観に頼らないで公理から厳密に数学的構造や概念、定理を論じていくというスタイルも、はじめからそういうものだと思っていたから、さしたる感慨も持たなかったけど、これはブルバキが始めたブルバキ流の数学のやり方だったらしい。70歳を越える翻訳者が、あとがきに、「いまどきフランス語で数学をやるのは流行らないかもしれない」と書いているけど、かつての日本では、数学大国フランスに憧れて、フランス語の論文を読みあさった時期があったということなのだろうか。
ニコラ・ブルバキというのは、実在の人物ではない。ブルバキとは、フランスの複数の若い数学者たちが結成した伝説的集団の名前で、彼らが用いる架空の数学者の名前。ブルバキに参加する個人の名前は徹底して伏せられ、発表されるものはすべてブルバキという個人名で出されたという。活動も内密、その一切が最近になるまで秘密のベールに包まれていたという。
そもそもの発端は、解析学のいい教科書がないから自分らで作ろうという話。地方大学で教鞭を執る有望な若手数学者たちが、いっそ自分たちで決定版の教科書を作ろうと思いついた。そして1930年代から秘密裏に始めた著作活動が、その後50年近くにわたって続くことになり、誰も想像しなかったような伝説的な存在となっていく。ブルバキは、途中でメンバーが交代したりしながら一連の著作を出版し続け、フランス国内にとどまらない大きな影響を数学界に及ぼす。はじめ単なる教科書づくりだったものが、すぐに『数学原論』を名乗り、打倒ユークリッドをかけ声にするほどの一大プロジェクトになる。「抽象から一般へ」という高度に抽象的な数学的構造を描き出す彼らの公理的方法論は、構造主義とも呼応して芸術や他の人文科学にも影響を与えたという。
時代背景からとき起こし、ブルバキの活動、内部的葛藤、外部からの批判、歴史的意義なんかを、ちゃんとプラスの面もマイナスの面も含めて紹介してあるいい本だ。エコール・ノルマルのエリートたちが好むカニュラール(冗談)と呼ぶ悪ふざけのエピソードの数々も面白い。
数学的な補足解説や人物史が、妙に長々としたコラムになっているうえに、登場順やページがまったく脈絡がない。雑多な話があっちこっちに散乱していて、本としてまとまっていない。もとが雑誌記事だったから仕方ないとはいえ、ちょっと読みづらいぞ。写真と翻訳のクオリティも高くないのに2400円と値段だけ高いのもいただけない。

2004/05/12(Wed)

黄色いゴーグル

出社前にプールへ。昨日は快晴の夏日で無性に泳ぎたくなるような天気だったけど、今日はどんより。今ひとつ気分が乗らないけど。
ゴーグルを忘れたので、その場で購入。1600円の安物。真っ黄色のゴーグル。これでゴーグルは3つ目。これまでに水着も3着買ったし、スイムセットがムダに3セットになった。と思ったら、耳栓1セットをなくした……。どっちにしても、水泳って安い趣味というかスポーツだよな。
少しやせた。経験的な感覚だけど、食事量が一定だとすると、泳がない状態に比べて、だいたい10kmぐらい泳ぐと外見的に見える効果が現れるらしい。10km一単位。
クロールは10分で240カロリーだそうだから、1km20分のぼくは、1kmあたり推定480カロリーを消費する。480カロリーといえばコンビニの小さめカレーライス1杯ぐらいだから、10km泳ぐというのはカレーライス10杯ぐらいを消費するって計算になる。確かに効果が現れておかしくない。
ジャグリングの3ボールカスケードで、久しぶりにアンダー・ザ・レッグを試したら、ひょいっとできた。うれしい。いつものように、いったんできてしまえば何度でもできる。ボールを連続して高くあげて、一瞬両手とも空っぽにするという練習を少ししていたのが効いたらしい。同じリズムでできるはずのビハインド・ザ・バックも試したら、何とか1回できた。どっちも見ている人に「わかりやすい」動きだから、いかにも技らしい技ではあるけど、なんか小手先技っぽくて好きなれない。どんな曲芸でもそうだけど、スゴイ技+小手先変形とか、あるいはスゴイ技+実は関係のない動き、みたいなのって、姑息な感じがしてイヤ。小技+小技で大技に見せようとするようなのもいただけない。
同じ小手先系の技でも、キャッチしたリンゴを口にもっていってガブッとかじるという技は愛嬌があって好き。リンゴをかじる瞬間、一瞬ボールの動きがかわり、手の投げ方も変則的になる。でも、だからといって、これが見た目にハッするような技かというと、そうでもない。なんだかネムタイ感じ。ずっとむかしに横浜の野毛山で見た大道芸人のリンゴかじりは、いまぼくがやっている(あるいはやろうとしている)ものよりも、ずっと生き生きしていたように思う。どうしてなんだろうかと思って検索したら、同じ「Eating the Apple」でも、少なくとも3通りのやり方があるらしい。いまのぼくがやっているのは、一瞬片手で2個を回す「33342333……」というパターンで、これはパターンが一瞬とまるような印象を見ている人に与える。スピード感を出すには、たぶんこれではダメで、左手→口→右手という動きをさせる必要があるのだろう。

2004/05/13(Thu)

結跏趺坐でサトリを

たまに思い出したようにやっているストレッチを、少し続けてみようかと気合いが高まる。こういう「日課にしたい」ことって、始められるかどうかとか、始めたあとに続くかどうかって、気合いのあるなしと関係なく、むしろ単純に毎日そのことを思い出すかどうかにかかっているように思う。だから「忘れないように」することだけが大切だ。
忘れないようにする簡単な方法は、毎日メモを取ること。というわけで、またしてもメモをホームページに残すことにした。今度は「軟体化計画」(それでもおまえはホントに編集者かというセンスのないネーミングです。タイトルとか見出しをいい加減につける悪いクセがあったりして)。さて、続くかな。変化のわかる数字がないとつまらないので、前屈の数字を記録することにした。スタート時点の今日現在、精一杯まえにかがんで指先から床までの距離は8センチ……。恐ろしく堅い。
ストレッチのついでというわけではないけど、少し座禅も試してみることに。座禅と瞑想がどうちがうのかとか、さっぱりよくわかってないのだけど、本屋で「座禅してみよう!」的な本を立ち読みした限り(ぼくの会社のある町は、とある新宗教の総本山で、駅前の本屋には仏教関係の本がきわめて充実しているのです)、それほど「こうでなければならない」という堅苦しいものでもないらしいし、まして誰かに師事するわけでも何とか派に入門するわけでも、即時的即物的な効果を期待するわけでもないので、何をやると何が起こるかを気長に観察するというぐらいで、ひとまず。バタバタと忙しく日々を過ごすなかに、空っぽにする時間を作るのは何か意味があるのではないだろうか、と。
忙しい毎日……。この日記を見ていると、ジャグリングと水泳しかやってないように見えるかもしれませんが、実は西村は仕事もしているのでした。人並みにストレスもあるし(嘘つきました)、「雑」誌の仕事らしく、「雑」事に忙殺される毎日なのです(また嘘つきました)。逃げ出したいほど仕事を抱えています(嘘で塗り固めました)。
釈迦が悟りを開いたときの格好と言われる結跏趺坐はできないので、とりあえず片足だけ組んで、半眼で薄暗闇の中に座ってみる。30秒。なんだか自分がバカに思える。1分。まだ息が不規則。ものの本によると息を整え、姿勢が整えば、自然と心も整うとある。3分。頭がかゆい。かいちゃだめなのか? 5分。雑念いっぱい。ハードディスクの音が聞こえる。昼間の出来事と明日の仕事のことを思い出す。7分。時計に目をやる。ぜんぜん時間が経たない。究極の時間の無駄使いをしているような気がしてくる。10分。斜め下に落とした視線の先にある壁に、ぼんやりほの光る一条の道が見える。見えていたものが見えなくなっているような、まだ見えているような視覚的低調状態に入る。と書くとスゴそうだけど、実はジャグリングを100回も続けると、やっぱりその単調さに視覚が耐えられなくなって世界がペターンと立体感を失う感じもあったりする。視覚は単調さに弱い? 13分。そろそろ飽きたよ。15分。今日はこんなもんか、何の変化もなし。

2004/05/14(Fri)

静かに座るだけでも

座禅の本を探す。どこで何を立ち読みしたのか記憶が定かではなく、思っていた本が見つからず。
ネットで検索。座禅は坐禅と書く場合も多いらしい。それにしても、ロクな情報がない。だいたい以下のような感じ。
Googleで10分ほどネットを検索してみた結果、「座禅に興味がある」と口にすることは、めっちゃ恥ずかしいことじゃないかという気がしてきた。
経営と座禅、あるいは起業家の茶人趣味とかって、なんだかいかにもって感じ。暑苦しくてうるさい「ネットワーク作り」好きの人たちが、下品な他者利用という露骨な俗っぽさをカバーアップしているような印象を受けるんだけど、それってぼくの考えすぎ?
座禅体験ツアーは、かなり盛況らしい。商業主義的にパッケージ化されすぎている感が興ざめ。なんだかカルチャー教室に通う有閑マダムのようになりそうだ。そういうおばさんたちって、そのうち「わたし、般若心経を1万回写経しました」とか言い始めそう。
医学的側面には興味がある。座禅の身体的効用は大いに知りたいのだけど、こういう医学的見解を云々する情報というのは、どうしてこうも信憑性に欠ける記述にとどまるばかりなのだろうか。証明されている、と書くならデータを示せ。
自分は誰ともつるまないし、団体や組織に属するなんて時間と金の無駄で、自分は自分で神と遭遇したと言っているカンチガイさん発見。チャクラがなんだの、蓮の花が見えるだの、かなり怪しいことを言っている。この人は痔にも効くんだと不思議なことを言っている。神学の基本となる構図に「内在」と「超越」という二項対立のキーワードがあるらしいけど、この用語で言えば、まるっきり俗な内在的体験を、超越とカンチガイしているだけってことじゃないだろうか。オウムのときにも感じたけど、ヒンディー語とかサンスクリット語的な響きの用語を使うのって、きわめて俗世間的マーケティング手法だと思う。マーケティングとは、つまり合法的詐欺なわけで。
浄土宗系の人が、蓮如の言葉をひいて座禅に対する見解をなにやら書いている。なかなか参考になるけど、何というか、うーん、言ってることがタルイ。ぼくの好みは浄土系ではないように思う。
座禅と言わず、meditationと言えばどうかと思って検索してみた。東洋かぶれの心優しそうな西洋人たちのつどいや、ベジタリアンで地球と環境と戦争のことで心を痛めている系の人たちが出てくるのか、はたまたスピリチャル系かと思ったけど、そういうのは案外少ない。
http://www.learningmeditation.com/という、なかなかに近い感性のページを発見。「山にこもったひげもじゃの修行者に、人生の意味ってなんだ? とかそんなふうに問いかけちゃう絵が思い浮かぶかもしれないけど、別にそんなんじゃないんだよ。瞑想のやり方に正しいも間違ってるもない。それは自分と向き合うってことで、そういう時間を、誰もが持ってもいいんじゃないかと思う。」というようなことを言っている。「ある時は訳もわからず涙が出てくるかもしれないし、笑みがこぼれているかもしれない。それはあなたの中の感情で、そういうものに声を持たせられるのが、瞑想なんです」なんてことも言っている。うーん、自己の内奥と向き合うと泣くのか? なんかちょっとついてけない。
急に座ってみようと思ったぼくが何がしたいのか、何を期待しているのか、改めて考えてみると、
というぐらい。こう書き出してみるとわかるけど、とりあえず時間を決めて、毎日静かに座る時間を作ればいいだけじゃないかと思えてくるし、それを座禅だとか瞑想だとか名前を付ける必要はなさそうな気もする。

2004/05/17(Mon)

シャノンのジャグリング定理

このところ、ネット上でジャグリング関係のネタを読みあさっている。英語で検索すれば、素人っぽい人から玄人っぽい人までビデオ実演、解説、アドバイスと、いくらでも情報が出てくる。ジャグリングパターンを実演してみせてくれるジャグリングソフト、というのもある。
あれこれリンクをたどっていたら、1995年にScientific Americanに掲載されたという記事「The Science of Juggling」にたどり着いた。で、読みはじめてすぐに驚いた。「MITのクロード・E・シャノンによって提唱されたジャグリング定理によると……」と書いてあるじゃないか。
シャノンって、あのシャノン? と思って検索したら、あのシャノンだった。情報理論の父と呼ばれ、コンピュータサイエンスと、情報通信に絶大な業績を残した偉人。そのシャノンが「ジャグリング定理」を残している。それどころか、シャノンは「ジャグリングマシーン」なるキテレツな機械も作っていて、人形にジャグリングをやらせている。そしてビデオを見る限り、本人も少しはジャグリングができる人だったらしいことが判明。もっとも、あんまりうまくはない。この後、ジャグリングの数学的、工学的、認知心理学的な側面を研究する研究者たちがワッとジャグラーの世界になだれ込んできて、「ペーパージャグラー」と呼ばれる、自分ではボールが投げられないけど、ジャグリングパターンに詳しい人たちというのが生まれたという話もある。
で、その記事によると、その定理というのは、
シャノンのジャグリング定理
(F+D)H=(V+D)N

Fはボールの滞空時間(Flight time)、Dは手中にある時間(Dwelling time)、Hは手の数(Hands)、Vは手が空っぽの時間(Vacant time)、Nはボールの数(Number of balls)
で与えられる。図を描いてみれば、ほとんど自明とも言える等式だけど、「どういう条件であればジャグリングはパターンとして実行可能か?」という制約条件の定式化は、このシャノンの仕事が初めてらしい。この等式から、すぐに、「Nが大きくなると、わずかなリズムの乱れがパターンの崩壊に直結する」という重要な洞察が導かれる。3個、4個、5個と、1個ボールが増えるごとに、極端に習得が難しくなるのは、ひとつにはこのリズムの問題があるらしい。
シャノンの情報通信に関する業績を紹介するページは掃いて捨てるほどあるけど、その人となりや茶目っ気たっぷりのジャグラーだったことなんかは、A PERSONAL TRIBUTE TO CLAUDE SHANNONを読むと書いてある。シャノンの講義中に、ひょっこり教室に現れたアインシュタインのエピソードがユーモラスで笑える。
ジャグリングパターンの記法はいくつも考案されているけど、もっとも広く知られていて、かつ実りの多いのがサイトスワップ記法。これが、なかなかおもしろい。すでにぼくは実力を遙かに超えてあれやこれやのパターンを知っているので、ペーパージャグラーとなりつつある。
「ナインボール」と聞けば、もはやビリヤードではなくジャグリングを思い出してしまう。

2004/05/18(Tue)

レッシグ教授のアジテーション

6月頭に行くことになった台湾出張までに、あれもこれも終わってないと、というあわただしげな気分。社員教育の一環であるプレゼン研修をキャンセル。ああ、受けてみたかったけど。いやはや、「ツケ」というものはいつでも回ってくるものですね、くるくると。ツケって、払いきったと思ったらその日からたまり始めるものだからクセが悪い。
Winny論争でうんこ垂れな議論ばっかり出てきてるこの頃。さすが若さとオタク度で群を抜く東浩紀がまともなことを言ってるように思う。しかし、なんと言ってもレッシグだ。
レッシグ教授が3月に上梓した『Free Culture』をダウンロードしてPDFで読もうか、いややっぱり彼の活動に敬意を表してお金を払って本を購入するべきかなんて思いつつ、Flash版(日本語字幕つき)で最近の講演を聴いたですよ。「昨今の著作権法改正と、ネット上の監視強化によって、われわれは、そしてわれわれのクリエイティブな文化というのは、既得権益者の陰で窒息しそうになっている」という主張はずっと変わっていない。が、今回はリフレイン効果と、アジテーション効果にやられました。「What have we done about it?」。レッシグ教授のIT業界デビューは2000年の春あたりだったように思うんだけ、あれから4年も経ってるのか。
仕事がらみの本を探しに大型書店に行ったついでに、西嶋和夫『自宅でできる坐禅の心得』(金園社)を購入。鈴木大拙の仏教解説本も2冊ほど。
島内景二『歴史を動かした日本語100』(河出書房新社)、読了。タイトルと中身の乖離のために読み始めはイライラしたけど、はじめから「日本の歴史、文学史に残る名文句にまつわるつれづれなるエッセイだ」と言ってくれればそれなりに楽しい本。手放しの賞賛や耽美、勝手気ままな脱線ばかりで、チャート式的、百科事典的な解説も期待しているこちらとしては「不親切なり」とストレスがたまる面もある。歴史と文学が趣味の人が作った「とてもよく書けたホームページ」という感じ。ちょっと説教くさいし、いやに老成した印象の文章だったので、書いたのは70歳ぐらいのじいさんかと思ったら、まだ50歳にもならない大学の国文学の先生だった。しかし、困ったことに、この先生が推薦する本の多くを読んでみたくなってしまった。

2004/05/20(Thu)

台湾系出会いサイト

台北はどのくらいの気温だろうかと思ってヤフー台湾にアクセス。我知道我不要看台湾的網路。いや別に台湾のサイトにアクセスする必要なんてないんだけど。たまに見ると、香港、台湾あたりのサイトってとっても楽しい。
新聞欄を眺める。「政治」「科学」などとジャンルが分けられている中に「両岸」というのがある。これってもしかして中台関連情報だけを伝えるためにあるジャンル!?
いつか中国語をやってやろうと思っているわりに、口語中国語の書き言葉って、あんまり見たことがないなぁと思って、「拍賣(売り買い)」「交友(友達、出会い系?)」あたりをクリックしてみた。音で聞いていると、ほっとんど何もわからない中国語だけど、文字にすると、ズバリわかってしまうセンテンスが非常に多い。むかしお金のなかった学生時代に、旧字体で書かれた古い本ばかり読んでいたおかげで、ぼくは繁体字にアレルギーがない。むしろ、いまでも「実存主義」は「實存主義」と書いてほしいと思うことが多い(うそ)。どっちにしろ漢字の威力はすごいなと思う。
まず、出会い系サイトを見ると、台湾に美人が多いことがわかる(それは漢字を読まなくてもわかる)。そして、あれこれの記述を眺めていると、もうほとんど日本の出会い系サイトと同じで、類推から、非常に多くのことが読み取れる。外型(外見?性格?)の分類「粗■豪邁、高貴典雅、痩痩高高」なんかは見ていてなんだか笑える。痩痩高高(やせやせたかだか)なんて、すっごいひょろひょろな感じが伝わってくる。「嬌小可愛」「短小精幹」あたりも、文字を見ればよくわかる。と思って「嬌小可愛」をクリックすると予想に反して、これは男女ともに使われる形容らしい。「性感撫媚」。これは、ぼくが想像しているものとはきっと違うんだろうけど、想像力をかき立てずにおかないものがある。
自己介紹の決まり文句、趣味、自分の性格、星座、学歴などなどを眺めていると、発見や笑いがある。どういう顔したやつがどういう出会いを求めてるかも、何となくわかる。
但我不愛管人..(でも、私ってふつうの人はだめかな。。)
不喜歡太黏缺乏安全感的男人..(優しく包んでくれるような頼りがいのある人に出会えたら最高です。。)
愛幻想..(愛は幻想。。)
心目中的對象:能讓我崇拜的人..(探しているタイプ:私的に尊敬できちゃう人。。)
と、こんなことを書くやつは日本でも台湾でも美人なんだけど、男に求める条件はややタカビー。尊敬できる人がいいな、と言ってるオンナに限って、自分は生まれ持った美貌以外に何も持ってなかったりする。
ちょっと痛そうな自作(?)の詩を披露しているロック野郎がいる。青臭くて恥ずかしい内容っぽいんだけど、美しく並んだ五言絶句っぽい漢字列を見ていると、やけに高尚に見えるから、漢字ってのは不思議だ。
日本人からすると韓国ドラマは良くも悪くも「ナイーブ」に映るわけだけど、台湾も、ちょっとそういうところがある。とある女子が、こんなウブなことを書いている。
「愛情本來就不公平 要如果找個平衡點 愛情是屬於自己的...」
たぶん、こんな感じの意味。愛なんてホントは不公平なもんだ。それぞれの??のバランスを探すようなもの。愛は、?において利己的。日本語を書いていてフッとよぎった。これって、ミスチルの「愛なんて、いわばエゴとエゴのシーソーゲーム」の中国語訳じゃないだろうか。どっちにしても、出会い系サイトの自己紹介に書くには、あまりにストレートで、ひねりも照れもない恥ずかしい記述だ。あ、「本来就不公平」って、「本来は不公平」じゃなくて、「本来、公平に就かず」なのかな。
イ尓問在我心中 是否還苦惱
これも日本のサイトでよく見かける決まり文句と同じことじゃないだろうか。「よくどんな人が好みかって聞かれるんだけど、ヒトコトで言うのは無理」。簡単に言えないっていうとき、だいたいその人の頭の中には何もない。情報量ゼロの、こんな思わせぶりなセリフを吐くぐらいなら、いっそ「我很明朗会計好男子(明るい人が好みです)」と書くほうがずっとマシだと思うんだけど、日本でもこの手の謎めき系って多い。
平常工作很忙〜〜〜
みんな工作、工作って書いてるけど、文脈からすると仕事ってこと? 「ふだん仕事めっちゃいそがしい〜」ってこと? 「〜」とか「...」といったのを文末によく見かける。とくに「〜」は韓国人も非常によく使う。なぜだ。
「本週之星(今週の注目株?)」にあった、こんな署名が気になった。
姥姥(超Q的美女)
なんだかヤマンバっぽい響きなんだけど、括弧内には超弩級(?)の美人とある。「超Q的」の発音はどんなのだろうか。
まん丸い顔の30がらみの男の写真につけられた、こんなハンドルネームも気になった。
星空騎士
おまえが騎士かよって顔です。メイクワァンシー。意外なところに思わず吹き出す発見がある。
星座:巨蟹座
蟹座って、むこうでは巨大なのか……!? それとも「巨蟹」がセットでカニってことか。さらに乙女座は「處女座」だった。まあ、ラテン語源(?)でも、Virgoは処女ってことなんだろうけど……。
眺めていれば眺めているほど、中国語の語彙やルールらしきもの、日本語(で使う漢字)と違う点などが見えてくる。やっぱり日本人には中国語は比較的入りやすい言語なのではないだろうかと思えてくる。特に英語でSVO文型に慣れているからじゃないかと思うけど、
那是因為我愛喝珈琲
のようなセンテンスって「那(this)是(is)因為(why,because)我(I)愛(like)喝(drinking)珈琲(coffee)」ってことだから、すんなり読める。え、ぜんぜん違う? まちがってる? 中文わかる人おしえて。
スペイン語ネイティブやフランス語ネイティブの中には、文法事項や基本語彙をないがしろにしたまま、「雰囲気だけ」でぺらぺらと通じる英語を話すやつがいる。発音はひどいし、単語はフランス語やスペイン語を交ぜるし、動詞の時制や活用なんて気にもしないって感じ。そういう雰囲気英語と同じことを、日本人は中国語でできるんじゃないだろうか。
しかし、ともかく発音が壁だ。うーむ。ともかく、中文修得的計画を今天我将開始的野望発動なり。いや、ミョンテン来たらず、学なりがたしだ(意味ないです)。
ちょっと思ったんだけど、中国語の出会いサイトをちゃかす企画で、中国語学習本を作るとウケませんかね。「ネット口語で覚える生きた中国語」。だってさ、せっかくやる気になって買った入門書に「陳先生、今日も雨が降りますか」みたいな文章ばっかり並んでたら、読む気も失せるぜよ。やっぱり「愛幻想……」と書いてあるほうが、100倍読んでみたいと思うでしょ。

2004/05/23(Sun)

華厳の滝

「間に合いそうもなかったら、後の作業はやっておくよ」と上司に心配されつつ、土曜日朝7時30分に入校作業は終了。そのまま8時半集合地点へ向かい、鬼怒川温泉旅行へ。温泉旅行とかゴルフって年寄り臭いし、乗り気になれなかったのだけど、まあそういう年齢になったのだなとあきらめつつ。推定平均年齢30後半のグループで一路、栃木へ。
メシうまく、空気もうまい、田舎町。川面を見下ろす宿の露天風呂もなかなかの風情。初めて訪れる東照宮もケッコーなもんだし、雲霞に煙る男体山や華厳の滝も、美しうございました。
華厳の滝で気になったのは、16歳で哲学的言辞を弄して投身自殺をはかった藤村操のことだけど、彼の逸話を思わせるようなものは何もなかった。ただ、滝壺まで下っていくエレベーターを降りてから観瀑所へ続く湿っぽいトンネルの途中、壁をくりぬいたところに小さな仏像があり、そこに捧げられた、「滝壺に露と消えた霊たちへ」といった言葉だけが、この滝が、かつて自殺の名所であったことを思い出させてくれるだけだった。
検索してみて驚いた。ぼくら一行が滝を見た5月22日は、彼の101度目の命日だったらしい。16歳の哲学青年が「万有の真相は唯一言にしてつくす、曰く”不可解”。我この恨を懐て煩悶終に死を決す」と木に遺書を書き付けて滝壺へ身を投げたのは1903年5月22日。宿題をさぼって夏目漱石に怒られてションボリきてたのか、失恋の痛手から生きていくのが馬鹿らしくなったのか、それはよくわからないけど、もっともらしい厭世哲学観を堂々と述べて劇的な行動に走った16歳の哲学青年にシンパシーを感じてしまう。以下は、彼が樹皮をはいで大木に書き付けた遺書。
巌頭之感

悠々たる哉天壊、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリチィーに値するものぞ。萬有の真相は唯一言にして 悉す。日く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
当時、藤村投身自殺が社会に与えた衝撃は大きかったらしい。むかし、大学の後輩の知り合いに遺書を書くのが趣味だという変人がいて、そいつが言っていたことだけど、遺書を趣味にする問題点は、「よく書けた遺書を目の前にすると、どうしても試しに死にたくなってしまう」ということらしい。
33歳の今のぼくから見れば、藤村の遺言にある厭世観は、哲学的直感というより、エリート青年のうぶな衒いとでも言うべき大言壮語にしか見えないけど、うぶな哲学青年や文学少女たちを死んでみたくさせるだけの名文ではあったらしい。藤村自殺の直後、藤村の学友が後追い自殺をし、さらにそれから4年の間に185人が華厳の滝で自殺を図ったという(既遂は40件。未遂の多くは警戒中の警官に保護されたよし)。いじめを苦に自殺というのも、1980年代のあるときからブーム的になったものだけど、自殺、特に若者の自殺が流行するというのは、ウェルテルの悩みが流行って若者がみんな黄色いチョッキを着て町を歩いた昔から変わらないパターンらしい。最近ではインターネット掲示板心中というのもある。群発自殺ってヤツで、一種のレミングスだ(うそ)。
初めての日光東照宮。パンダも喜んでます。
明治時代に神仏分離運動(?)があったとかで、仏塔関係は五重塔と、教典を収めたロケット型の塔(名前忘れた)ぐらいしか残ってないらしい。日光東照宮は、二社一寺。
みざるきかざるいわざる。パンダのほうがかわいい。
鮮やかな朱色や金色のせいもあるだろうけど、京都の古色蒼然とした寺社を見慣れたぼくの目には、どうにも唐風、天竺風に見えるんだけど。これもインドの象と中国の龍が混じったっぽい意匠。
本尊のやたらと豪華な仏像。真ん中が大日如来で右は、えっと阿弥陀如来?
陽明門の横を見ると、立体感のある彫刻が延々と続く壁。
家康の位牌。奥のお社に祀ってあった。30メートルほど奥にあったものを、光学3倍ズーム×デジタル4倍で撮影。
旅館にチェックイン。ぺこちゃんのキャンディーを手に持って。
滝で有名な日光。そのひとつ、湯滝。湯といってもお湯じゃないからね、まさこさん。
戦場ヶ原。典型的な日光観光コースですな。しかし、うそ寒い天気でした。
道ばたに咲くタンポポ。あと風のひと吹きで飛び出しそうな綿毛。こういうの、とても久しぶりに見た。
セクハラのおみやげ。いや、買ってません。
華厳の滝へ下るエレベーターの入り口にはモニターが。霧の多い日光では滝が見えないことも多いらしい。
帰りは宇都宮で名物の餃子。市駅構内にある「みんみん本店」。まあふつうにおいしい。5個1セットを「シングル」と呼び、2セットを「ダブル」、3セットを「トリプル」などと呼ぶらしい。目の前に座った地元っ子らしいお兄ちゃんはトリプルの焼き餃子+シングル水餃子を食ってた。

2004/05/26(Wed)

風邪

喉がいがらっぽいので思い出したようにあわててイソジンでうがいをしてみたけど、風邪を引いてしまったらしい。このところ陽気が続くから今週こそ泳ぐつもりだったけど、これで今月は3400mぽっきりってことで確定らしい……。
ホセ・オルテガ『大衆の反逆』(中央公論社)、読了。1930年初刊。ぼくの中でわだかまっていて形をなしていなかった問題意識が、ハッキリした輪郭を持ったような気がする。

2004/05/27(Thu)

果物は傷む

このところ、部屋にあるリンゴを食べる気になれない。だいたい買ってきてすぐに落っことす。少し傷みが始まると、どうせ傷んでるからと、また投げてしまう。で、そろそろ食べないとやばいかなというころには、すっかりアチコチが傷んでしまっていて、もうあまり食欲をそそらないシロモノになってしまう。
程良い重さとキャッチしたときの音が心地いい。
西嶋和夫『自宅でできる坐禅の心得』(金園社)、読了。禅の歴史や正法眼蔵の教えの基本、正式な作法のひととおり、自宅でもできる坐禅のイロハなんかが学べる入門書。臨済宗と曹洞宗とで異なる呼称や作法も、両方書いてある。ま、どうでもいいんだけど、そんな違いは。解説文には、かなり胡散臭い坐禅の医学的効用なんかも書いてあるけど、そんなことは、別にどうでもいい。
やっぱりぼくは禅の発想は好きらしい。そして、仏性、悟りなんかといった言葉に対するイメージが、ずいぶん変わった。胡散臭い宗教家のために、超越的なものや、それこそ宗教的なものを思い浮かべがちですが、これらの言葉は、どうやら「いい感じのありのままの自分」というようなことを言ってるだけらしい。がんばりすぎず、落ち込みすぎず、さぼらず、気張らず、ひたむきに。焦らず、傷つけず、後悔せず。ただ、無心に日々やるべことを一所懸命にやって生きていく、それが人間の幸せであると、釈尊の教えはそんなところらしい。
諸行無常、日々是好日。この2つの言葉は、アランが幸福論の中で言っていたことと驚くほど一致している。生きていると、いろんな出来事があり、いい日もあれば悪い日もあるんだけど、表面的な善し悪しはそのまま受け止めて、すべて良い日であると、そう考えるのが「日々是好日」。過去を悔やんだり、未来を憂えたりすることはない、ただ現在のみを無心に一所懸命に生きなさいという教えの背後にあるのが「諸行無常」。すべての行ないは時間の流れの中で移ろう。だから、われわれには現在しかない。ただ現在の自分になりきる。ただ、いま自分がやるべきことを無心にやる。
諸行無常って、祇園精舎の鐘の音との連想で、何となく「無情」のニュアンスがまとわりついていた。でも、この諸行無常というのは、世のはかなさとか、存在の不条理に対するルサンチマンのようなものなんかとは関係ないらしい。ただ、すべては常なしと言ってるだけで、それは仏教での、過去、現在、未来という時間の捉え方の根本を示す言葉らしい。
過去はもう過ぎてしまっていて存在しないのだから、未来に生かす反省だけをしたら、もう過去は忘れてしまって現在に生きよう。未来の不安やプレッシャーはわれわれを押しつぶすことはできない。なぜなら、未来はまだ存在していないのだから。われわれに関係があるのは、いま、この現在という一瞬、一瞬だけ。
まあ、レトリックと言えばレトリックなわけだけど。

2004/05/30(Sun)

甥っ子

誕生日が1日違い(正確に言うと、62年と1日違い)の甥っ子と父親の合同誕生日で横浜へ。両親は宮崎人になってしまったし、もはやこういう機会でもないと家族がそろわない。
新宿で出張のためのNEXのチケットを購入。その足でハンズへ。何となく追加でビーンバッグをひとつ購入。800円。これで道具的には同サイズで5個のジャグリングが可能になった。
2歳の甥にはおもちゃをと思ってあれこれ見ていると、トミーのフルキャラアイスという不思議なおもちゃの実演が。見た目は上下2部屋に分かれたディズニーキャラの円筒容器。容器の下には水と氷、食塩を大さじ一杯分ぐらい入れ、上に数十cc程度のジュースを入れる。で、90秒ほど上下に激しく振ると、ジュースがシャーベット状のアイスになるというもの。
正解を期待してたわけじゃないけど、実演していた女の子に「なんでこんなことが起こるんですか?」と聞いてみた。「塩を入れると冷えるんです」と、まるで説明になってない。塩を入れると融点や沸点が変わるというのはわかる。だけど、ほぼ断熱状態にあるモノが、どうして振って温度が下がるんだ。上がるならまだしも、なんで下がるんだ?
「氷が水になるとき周囲から融解熱を奪う」「不純物を混ぜると物質の融点は下がる」ということだけじゃ説明できないような気がする。この現象をちゃんと説明するのって、実は案外むずかしいんじゃないだろうか。時間の短さから言って、NaCl→Na++Cl-の両辺のエネルギーの差ぐらいしか温度差を説明できないように思うんだけど。で、振ったときの運動エネルギーが、そのエネルギー差を埋めるならまだわかるんだけど、どうして与えた以上のエネルギーを奪いつつこの電解が進むのかってことがよくわからん。それとも浸透圧と似たような話で、水溶液に氷を入れると、氷の融解が速まるとか、そういうことってあるのか。もしかして、すごくハズカシイ疑問だろうか、これは。
マルイの若者向けブランドで父親にリゾートカジュアルっぽいシャツを購入。父親とは体型があんまり変わらないので、自分で試着してみたら、思わず自分でもほしくなってしまった。たまにはユニクロやGAP以外で買えってことかもしれない。
甥っ子、かわいい。孫の歓心を買おうとあれこれやって逃げられている父親が不憫になるほど、ぼくにばかりなつく。何をするにも「けんちゃんとッ!」。やばいほどかわいい。兄弟で似ているから大好きなパパがもう一人増えたというぐらいに思っているらしい。

2004/05/31(Mon)

台北出張

台湾へ。そこはかとなく、仕事のやり残しがある雰囲気を漂わせつつ旅立とうとしてるし。

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NISHIMURA Ken <nis@bigfoot.com>