第1回 中野書店
[中野書店概要]
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▼中野書店店主 中野智之さんインタビュー
■中野 そうですね。取材とかがあるときには、話がどうしても漫画のほうにいってしまいますからね。そのほうが話題性があるからでしょうが、でも、中野書店は、ご覧になっていただけばわかるように、漫画の専門書店ではなくて、漫画はあくまでも店の一部であると私は思っています。 ●やはり手塚治虫の「新宝島」25万円という、あの印象が強いですからね。 ■中野 そうですね。あれは神保町にくる前につけたものでしたけど、当時は漫画の古本屋というのがなかった時代ですから、やはり印象が強かったようです。最近は取材にこられる方に、漫画以外のことも聞いてくださいとお願いしてるんですがね(笑)。どうも若い方というのは、本に対する基本的な知識が少ないようです ●久留米でお店を始められたときは、最初から「中野書店」の名前だったのですか。 ■中野 正確に言うと、うちの父と父の兄とが出版をやりまして、それが失敗して、残務処理などをしているときにずるずると古本屋になってしまったようです。 ●戦後、地方でもいろいろと出版を始めた方がいましたが、そういうののひとつだったんでしょうか。 ■中野 そうでしょう。一冊出してつぶれてしまったんじゃないかと思いますが。 ●扱っていた本はどんなものだったんでしょうか。 ■中野 いわゆるセコハンで、本全般だったと思います。 ●久留米のほうのお店はいつまで? ■中野 昭和34年までです。 ●それですぐに三鷹に出てきたんですか。 ■中野 ええ。なんで最初から神田に出てこなかったのって聞いたら、やっぱり神田というのは怖かったらしいですね。 ●三鷹に出てきた頃に、すでに神田に出てきたいという気持ちはあったわけですか。 ■中野 いえ、その後、しばらくしてからみたいです。神田に店をもつなんてとんでもないという気持ちだったようで。 ●三鷹で落ち着いてから? ■中野 ええ、三鷹の店が火事になったということもあって、それからですね神田に出て行こうかと考えたのは。 ●三鷹はどちら側ですか。 ■中野 南側です。桜通りというところで。昔、三鷹文化という映画館がありましたが、あのそばです。 ●三鷹はいつまで? ■中野 昭和50年までです。火事があった年です。そのあと2年して、神保町の古書センターがオープンしたので、そこに入れていただいて今日にいたっているということです。 ●「新宝島」25万円というのは、あれはいつのことでしたか。 ■中野 あれは三鷹が火事で焼けてしまったあとに仕入れたもので、それを小田急に出したものだから、51年になるのかな。 ●三鷹の頃にすでに漫画本を扱ってたのですか。 ■中野 いえやってませんでした。まったくやってなかったということはなかったですが、いわゆるプレミア本としてはやってませんでした。 ●昭和50年頃、古書市には中野さん、青木書店さん、江東文庫さんなどが漫画を出していたような記憶がありますが。 ■中野 その頃はポツポツという感じで出品してたんじゃなかったでしょうか。漫画をやっていたのはその3軒くらいだったでしょう。昭和50年というのはちょうど漫画の境目だったんですね。プレミアがつきだしたのはちょうどあの頃からでしたからね。それまでも個別にはあったのかもしれないけど、目立った形ではなかったですね。私個人としては、突然ぼんとブームがきたような記憶があります。 ●智之さん自身が本格的に店にかかわるようになったのはいつ頃からですか。 ■中野 神保町に出てきてからですね。ちょうど学校の終わる頃と重なってまして、大学の4年ごろから店にきだして、卒業してから本格的にはじめました。 ●また「新宝島」に戻りますが、あれはお父さんが付けた値段ですか。 ■中野 そうです。まったくおやじの目だけです。当時私は高校生でしたが、私自身が、なんでこんな値段をつけるのかと驚きました。若い方が驚くというのは変な話なんですが。私はその頃、本の値段をあまり知らなかったんですが、本好きで、本の値段に詳しい人も驚いたんじゃないかと思います。あれは実は三島由紀夫さんの値段と同じなんですね。手塚さんと三島さんは年が近いでしょ。三島さんは昭和19年に「花ざかりの森」でデビューしてますね。手塚さんが昭和21年です。ですから、三島さんと同じくらいの値段をつけたのではないかと私は思っているんです。 ●古本屋さんには常連のお客さんがいますけど、その人たちからの情報が影響しているというのはあったんでしょうか。 ■中野 いえ、うちに関してはそういうものはほとんどなかったように思います。全部手探りで値づけをしていったようです。ですから今から当時の値段をみますと、かなりでこぼこがあるじゃないかと思います。「バンビ」とか「ピノキオ」とかが高いとかSF三部作が高いとかいう常識が今はありますが、当時はフラットに古いものから徐々に安くなるというスタイルでつけていったんじゃないかと思います
●神保町にきてからしばらくして、初期作品集を次々に出してきますね。 ■中野 あれは完全に私の仕事です(笑)。珍しいものを復刻しようやと、勢いでやった仕事なんです。お客さんの中に水木さんと縁のある方がいらっしゃって、紹介していただいて出版の了解がもらえてスタートして、あとはまったくこちらで開拓していって続けたわけです。 ●その後、稀覯本を始められたんですか。 ■中野 それが誤解なんです(笑)。こちらのほうが先でして、稀覯本は三鷹の時代から展示会に出してたんですよ。みなさん漫画のほうに目がいってしまうんですが、漫画はうちの扱っているものの一部だったんです。近鉄の漫画の展示会の頃も、それと平行して肉筆本や初版本は扱ってました。 ●それは久留米の頃からですか。 ■中野 いや、久留米の頃はまったく街の古本屋でした。東京に出てきて、いろいろな影響があって、それできこう本を徐々に扱うようになったんでしょう。たとえば「麒麟の会」というのがあって、その方たちと徐々に親しくなってきて大衆文芸が目に入ってくるようになったし、あとは反町さんのほうにも行ってましたから、古い本のことも知識として入ってきました。そうやって徐々に広がっていって、うちのおやじさんが古本屋としてステップアップしていく中に、漫画も一部としてあったということなんですね。
大衆文芸についても、今では「ドグラマグラ」というとすごいですが、あの当時は愛書家の中でも知っているのはごく少数の方だけでしたよね。ですからあまりおおっぴらではないんですが、当時のコレクターの方にはいいものを持っている方がいらっしゃいます。私どももかなわないかなあ、と思う方がいますよ。 |